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母語って何だ #みんなの母語デー

私の第一言語(primary/first language)は日本語の標準語だ.しかし,母の「母語」は確実にそれではない.だから私の「母語」は「母の言語」と一致しない.まつーら先生企画にはできる限りのりたいが,なんかとても重たい課題なので尻切れトンボで終わる予感しかしないが,#みんなの母語デー #国際母語の日 企画のまとめ記事はここに.

ろう児の母語の話

ろう児の言語的人権を救済することを申し立てたとき,「ろう児の母語は日本手話」という言い方をした.「母語」とはなんとも面妖な用語だ.なぜならば,ろう児は「母語で教育を受ける権利がある」.それが家庭で身につかないことがある.この非典型的な事例がスッと飲み込める人はそう多くあるまい.ろう児の「第一言語」は日本手話になるべきかもしれないが,母は日本語を話す聴者(聞こえる人)だったりして,だったら「母語」(mother's language)は日本語ではないのか.私はこの理解のしにくさがイヤなので「第一言語」という用語の方がまだしもいいと思っている.

母の言語? 母なる大地的な意味なのか

「母語」という語は,ほぼprimary language/first languageと同義で使われる.しかし,母語=mother tongue/languageは,お母さんが話す言語的な含意が読み取れて,個人的に苦手な用語である.「母国」みたいな感じで「育つ基盤になる」くらいの意味なのだろうが….

私の母の「母語」は私の第一言語と一致しない.なぜならば,某雪国出身の母は,関東平野に出てきてまた別の地方出身の父と結婚し,関東平野で子育てしていたからである.私は冬や夏には雪国で,母の「母語」に囲まれて1ヶ月ほどを過ごし,自宅に帰ると近所のおばさんに「なまってる!」とショックを受けられるほど(ショックを受けないで欲しい,と今の多様性尊重の世の中であれば主張するべきだ),母の母語の音に親しんでいたはずなのに,小学生にもなると,母の母語を話す祖母とコミュニケーションが取れなくなっていた.祖母は加齢性難聴だったからだ.彼女の話すことばは私に理解できず,私の話すことばは祖母に届かなかった.

自己同一性 identity と言語

私は「母語」より「第一言語」という言い方をしている.とはいえ,「第一言語」にもやはりウェットな意味が含まれていることには注意されたい.第一言語はあなたの出自,アイデンティティ(自己同一性という訳は説明的だがある意味正しい)と不可分のものだ.

先日,手話言語学の授業でこの話をしていた.「私の第一言語は手話です」とか「私の第一言語は日本手話です」という人に対して「いやいや,あなたは先に音声日本語を身に付けたから,第一言語は日本語でしょ」とか「あなたの手話はネイティブサイナーの日本手話より日本語対応手話に近いように見える」とか言ってはいけませんという話だ.

第一言語/母語は極めて個人的な自己認識/自己同一性と不可分のものなので,「私の第一言語」と思っているものの「名前」を他者に否定されるようなことがあってはいけない.これはLGBTQの人に「いやいやあなたは○○という身体的特徴を持っているから〈特定の性〉でしょ」と自認を否定することに似ている.

ただし,研究者としては「第一言語」を何らかの定義づけをして使わざるを得ない.「最初に(first)習得した言語」なのか「主に使っている(primary)言語」なのか.両方が両立している人はそこまでこだわらない.あるいはそれに名前を付けて呼ぶことすらないかもしれない.でもろう者の場合「先に(訓練で)習得したのは日本語だが,私が主に使っていて自己認識の拠り所になっているのは日本手話だ」という人が結構いる.もちろんネイティブサイナー(母語も最初に身に付けた言語も日本手話)から見たら「あの人はやはり日本語が強い手話だと言わざるを得ない」という認識があることも承知している.でもその人の「拠り所」を外野がとやかくいうことではない.(ただし,言語研究をする場合は,ある程度収束しそうな言語使用をしている人が望ましいわけで,なかなか難しいのである)

コミュニティとしての言語アイデンティティーとはなんぞや

もうひとつ考えておきたいのは「コミュニティとしての同一性」である.これは国連障害者の権利条約に書いてある.

手話の習得及び聾社会の言語的な同一性の促進を容易にすること。

国連障害者の権利条約 第24条教育 3(b)


聾社会の言語的な同一性の促進とはなんぞや.英語で見てもこんな感じ:

Facilitating the learning of sign language and the promotion of the linguistic identity of the deaf community

UNCRPD Article 24 3(b)

しかしこれが大事なのだ.手話はホームサインであってはいけない.子どもの集団を作って,手話を習得させるべきであることは次の文から読み取るべきである.

盲人、聾者又は盲聾者(特に盲人、聾者又は盲聾者である児童)の教育が、その個人にとって最も適当な言語並びに意思疎通の形態及び手段で、かつ、学問的及び社会的な発達を最大にする環境において行われることを確保すること。

国連障害者の権利条約 第24条教育 3(c)

社会的な発達を最大にしようと思ったら,ろう児は手話を話す子ども集団で育つ必要がある.コミュニティでの言語的同一性と,社会性の発達を考えるとき,手話を話す子ども集団で手話を継承すべしというメッセージがここにはある.

強引におわりに

母語=第一言語というのは,そのことばを一緒に使う仲間がいてはじめて成り立つものなのかも知れない.そしてその一緒にその言語を使う仲間・家族がいたことに,「母語の日」には改めて思いをはせてみても良いかもしれない.

あまりにもいろいろなことをやっていて,頭の整理がおいつかないので,突如強引にまとめに入ってしまったが今日はこの辺で.(レポート課題だったら確実に悪い方の例なので良い子はまねをしないように.)

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