
うっすら嫌われてもめげずにいる
ろう者や難聴者は、とても友好的に振る舞ってくれていても、私が聴者である以上、「気を遣われている」感がつねにある。基本的に、気を許されていない感というか。それは当然、「よそ者」だから仕方ないのだが、ときどき踏み込みそうになって踏みとどまるということをしている。その距離感が、なかなか難しい。
Privileged people will discover the oppression of others and then feel oppressed at the burden of being the “only person” speaking up about it while ignoring the massive amounts of work marginalized people are doing to challenge their own oppression.
— Nelson Flores (@nelsonlflores) January 16, 2022
特権を持つ人々は、他者の抑圧を発見し、それについて発信する「唯一の人間」であることの重荷を感じる一方で、周縁化された人々がすでにその抑圧を解消するためにしてきた膨大な量の仕事を無視する。(著者訳)
私も長らくこんな感じであったとドキリとした。
日本で手話を研究している人は多くないし、手話関係者で、聴者は手話通訳者が大多数を占める。研究をしている大学教員はたいてい語学の教員で忙しく、手話の研究者としてその専門性を発揮しているわけではない。手話研究の論文を書くという意味では専門性があるのだが、たとえば、手話通訳を養成する課程を運営していたりしない、という意味で(そもそも大学で手話通訳はほぼ養成されていない。)。
手話通訳者は、ろう者の社会についてよく知る人々であるが、守秘義務があり、たいしたことを発信できる立場にない。また、その歴史から、手話通訳者がろう者社会について何かを発信することに対して、ろう者たちは「代弁者になるなかれ」と釘をさしている。
研究者は、自分の専門を超えた部分であまり発言をしない。責任が持てないからだ。文化人類学者のようなフィールドワーカーであればまだしも、言語学者は言語を分析することが好きで言語学をやっている人が大多数なので、社会言語学的な観点、社会学的な観点などは、言語学者はあまり扱わない。まして、「聴者の特権」といったものに、真正面から向き合うことは、専門外である。マジョリティの特権という概念が、社会学の領域だろうし、なかなか専門的に手を出しづらくはある。しかし考えなければならないことでもある。
もちろん、「ろう者」や「難聴者」に関することは、当事者が発信するのがまずは大事だと思う。しかし、文化差についてわかり合えるようにしていく交流だったり研究だったり、意見交換だったり、は聴者の方にわかるようにするのには聴者の協力もあったほうがよいだろう。建設的な意見を取り交わせるようになるための下地作りはだいじだ。そもそもそうじゃないと、研究者として発信して良い範囲がなんなのか、判断できなくて発信をためらうことになる(なっている)。
さて、私は「社会学」という講義を手話通訳学科で教えている。非常勤で、隔年開講で、2回目(3年目)の講義を終えた。社会学を教えて良いのだろうかとよく自問自答するのだが、ろう者社会を知らない社会学者が講義をするのと、知っている者がやるのとどっちがいいのか天秤にかけた結果だと思って受け入れている。
手話通訳者の卵にたいして、手話言語学のフィールドワークをやる私が伝えなければならないことのひとつは、「聴者である限り、ろう者からは抑圧者の一員として見られる」という構造である。ときに、今まで訴えられなかった抑圧者への恨みを、抑圧者の代表として受け止めなければならないこともある。そういう構造を理解しておかないと、丸裸の心のまま傷ついてしまうことがある。
別の場所で、手話言語学の講義をしている。日本手話と日本語対応手話やシムコムの違いを説明することがあるのだが、「対応手話ではダメなんですか、意味ないんですか」と聞かれる。そんなことはない。むしろどんな手話でもよいのでまずは身につけて、若いうちにろう者や難聴者と交流して欲しいと思う。そして、学生として対等な立場である間に、カルチャーショックを受けておくべきだと思う。相手がいて、真剣に話そうとするコミュニケーションの中で培う「対応手話」は、ちゃんと通じるようになる。通じなければ通じないと言われる間柄で付き合えれば、の話だが。そこでは自分の排他的な感情とか、弱者はもっとやさしくあるべきだとか抑圧者にならないだけの理性が必要だったりする。それを今の若い人は年配の人よりずっとわかっているという感触もある。
相手と話す中で覚えるコミュニケーション手段としての「手話」は、偉くなってから、手話通訳者に単語だけ教わってパフォーマンスでやるものとか、見る人が理解していないことをうっすら理解しながらやる手話歌とかとは話が違うはずだ。
「聴者がろう者を演じることに対して、聴者は手話通訳くらいしかできないでしょ? それ以外はろう者がやるべきだ」という主旨のツイートを最近見て(引用しようと思ったら見失ってしまったが)ドキリとした。私は聴者だけど手話通訳をやらない。その代わり、予算を取ってきて、ろう通訳者に支払って翻訳してもらうとかはしている。そもそもその仕事を振るという仕事だってゆくゆくはろう者がやるべきものだ。現に、撮影現場で私はあまり役に立たない。ただの機材繰りをなんとかするお手伝いさんみたいになる。自分の第二言語で進行しているのを、ネイティブの人たちがネイティブのスピードでやりとりしながら進めているのを逐一チェックするのは、結構大変だ。正直言って、傍からネイティブサイナー達がやりとりしているのを見るのは、こちらに向かってそれなりに気を遣って話してもらうのを読み取るのとは訳が違う。
ただ、私は「特権的な」人なので、がんばっているつもりだ。最初のツイートにドキリとする理由だ。では、ろう者がやってきたことを無視してかというと、実はそうではない。ろう者がやってきたことに乗っかって、だ。そもそも、ろう通訳の養成はろう者達がやってきたことだから、それを無視してひとりでがんばっているわけでもないはずだ。
さて、この聴者は手話通訳だけやるべきってツイート、よく見ると、聴者の若い手話学習者のものらしかった。自分の役割を限定しようとする若者は、まだ途上にあると思う。私も20歳頃に手話に出会えていたらきっと同じことで悩んだろうと思う。
手話通訳者しかいないと、守秘義務が発生して、聴者社会でたいした情報発信ができない。だから、もっといろんな立場の人が手話に手を出したほうがいいと思う。
たとえば役者はろう者がやるべきだと思うけど、監督はろう者と聴者が共同してやってもいいだろうし、手話について書く人やその他メディアで発信する人も多様でダメと言うことはない。ただ、ちゃんと学んで、変な抑圧者にならないようにだけは気をつけるべきだろう。
ちゃんと学ばないと、ただの抑圧者になってしまう。そして、それが多数派の意見としてまかり通ってしまうのは恐ろしいことだ。だからこそ、そういう多数派の抑圧者を駆逐するためにも、良心のある人は、もっと学ぶべきだし、役割を限定しなくてもいいと思う。
憎まれようが、うっすら嫌われていようが、自分がやるべきと確信できることをやるまでだ。ろう者といっしょに仕事しているし、なにが必要なのか、どこから先は私が踏み込むべき領域でないのか考えながら、進むしかないのだ。