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アンチ「手話通訳不要論」のツイートまとめ

先日、突如「手話通訳不要論」という投稿がたくさんまわってきた。手話関係者が怒っている。あまりにも安直な手話に対する偏見を大量に並べる投稿が悪趣味だった。私も結構ツイートを投げていたので(試験前後の興奮で)一応まとめておこう。自分の分を。

この「日本語字幕を見てもわからない人は文盲」については、そもそも、そうした文盲、つまり非識字者のことを無視してきた歴史があり、今も日本語リテラシー関係に手話関係者の姿は見えないのは悲しいことだ(知ってたら教えて欲しい)。

厚労省の障害者の実態に関する調査「生活のしづらさ調査」も、日本語ベースで行われているので、結構あやしい。一応回答には意思疎通支援を使って良いことになっているのだが、そのアナウンスをちゃんと手話ができる人がやっていなければ、適当に読み飛ばして適当に書いて回答するか、回答ゼロかどっちかだろう。手話話者の数を割り出したいと思って参照するたびに「この数字はなんか意味あるの?」って思うような途方に暮れる瞬間がある。

余談だが先日総務省統計局の調査対象になった、と暑い中、壮年の女性が封筒を持ってきてクオカードも置いていったが、まだ回答していない。社会調査の意義もわかっているというのに。適当にこたえてしまおうか。まあそういうわけでどのくらい文字が読めないろう者がいて、その人たちが手話をどのくらい使ってるかとか、正確なデータがある確信はもてない。

日本手話は、日本語と異なる言語だが、日本手話が流暢な人は聾学校に参加している。ある程度は日本語の読み書きを学んだはずである。しかし、教育言語が日本語であって、1990年代までは手話を教室で使っていなかったために、言ってしまえば、ろう者たちは「届く言語では教育されてこなかった」。ろう者はそもそも「日本語を身につけなければかわいそう」みたいな感じでずっと特別支援教育を受けてきたので、日本語を身につけるべしという押しつけにずっと晒されてきた人々である。学校の先生も意地悪で日本語を習得させなかったわけではない。みんながその年代ごとにベストを尽くした結果として「日本語イマイチ」な人がいっぱいいるのである。結果として。だからこそ手話通訳が必要なのだといっている。

そもそも生まれた国でさえ、第一言語として自由に使える言語を、生活で全然使えず、それで情報が入ってこず、やっと手話通訳がたまに映るようになって無視されてはいないことは理解できる、くらいの状態になったのに「そんなもの要らん」っていう人が現れる。何の関係もない人の悪意に晒される。ひどいと思わない?

言語学関係者のご意見こちら。

コーダの五十嵐さん

親がろう者で、自分は聞こえるコーダの五十嵐さんが声を上げる理由は、後輩コーダのためでもある。ろうの親が生きづらくなるということは、子供も生きづらくなるということ。家族の誰かに対する公的支援が減れば、家族のメンバーがその人を支えなければならないということ。自助でやれと?

公的な情報保障なんて、一気に放送で流せば、万単位でいる手話ユーザーとその家族がそのひとつひとつの「支えるための簡易通訳」の手間を省くことができるだけでも十分な経済効果があるのでは?

言語の構造の複雑さの話

森壮也先生が見せた「ろう文」つまり、日本語が上手く身につかなかったろう者の日本語文を見せたのに反応して、「手話は劣った記号系」だとする論を展開する。しかし、人間には話したいと思ったことを今使ってる言語体系のなかで展開する能力があるようで、見た目はそれぞれちがっても、同じ内容を伝える文法体系をもっている。文法化の話を私がしているのは、そもそも「時制」とか「受動態」とか「仮定法」ってのは日本の学校英文法用語で、時制はともかくそれ以外は日本語の文法でもあんまり出てこない用語で、何を指しているのかよくわからないからだ。まあこれは言語学者の考え方だよね。

言語学者同士だとこういう会話になる。

あと、文化について。この人は思考実験をして楽しんでいるのかなと思ったんだけど、その思考実験すら頭がまわっていなくてただの嫌がらせで難癖だなと認識したのはこの辺。

手話が劣っているということについて結構いろんな側面で話題を出しまくってくれていたのでこんな整理さえできてしまった。

新しく出る本に手話を言語として証明していく過程について認知科学研究の歴史サマリーをよこせと言われたので、何やら凄い勢いで書いて、最後の章がいつか来るAI翻訳時代の話とろう通訳者による翻訳を増やそうって話だから、ぜひ買って読んで欲しい。夏の間には発売されるかな。


手話は日本語と文法が違うって話は、最近は大分浸透してきたけど、私が手話に出会った2010年頃はまだ常識でもなんでもなかった。2011年の震災の時に手話通訳が官邸会見に初めてついて、コロナ禍で都道府県知事などの首長会見にも手話通訳がついたのがネット放送されるようになった。手話の成り立ちについては、私が2020年に出した「危機言語としての日本手話」で結構詳しく書いていて、7000DLとかになっているので読んで欲しい。日本語と近い構造の手話がどうやって成り立ってるのかも一応書いてあった。

およそ少し事情を知っているうがった人の意見「辞書が貧弱」という話。NHKの手話CG辞書が今8000語になったらしいのであれが良いじゃんと思う。

そもそも無文字言語って、本来は集住していて小さい区域のとこで流通しているものがプロトタイプ的だからか、調査のバイアスかなんかよくわからないんだけど、語彙数は少なくなりがち。少なくとも調査者がそこまで大きなサイズのレキシコンを持って帰ってくるのはかなり難しい。あと日本語は和語じゃなくて漢語がめっちゃたくさん収録されている。日本語の辞書は日本語母語話者が作ってるけど、手話の辞書は手話—手話辞典がなくて、日本語から手話を引く辞典が大半を占める。

無文字のマイノリティ言語は割と小さい区域のとこで流通してる、が手話では異なる。手話話者は1000人に1人みたいな散在度なので、その子たちを集めた聾学校毎の言語変種があるし、それぞれの交流によって自然に標準化が進んだというよりは、辞書を発行することで、こっちが正しい、みたいに寄せていって、かつ聾学校の先生とかがそれで学ぶことによって、標準化をしているという割とイレギュラーな変化圧によって変化しているのではないだろうか。辞書に何を採録するかこそが言語政策的判断でもあり、NHK手話ニュースと日本最大の手話辞典が異なった傾向にある。この辞書を作るのは大変難しい、と手話の社会言語学の大家であるCeil Lucas先生が書いていた(どこだったかな)

あと、地域毎に魚の名前がたくさんある手話変種があったり、職業毎に部品の名前をたくさん持ってる変種があったりする。工場とかまとめてろう者が雇用されてるところとかには確実に「変種」がある。でもそういう手話は辞書に載らない。本当にめったに使わない名前なら、やはり日本語の名前を参照することが多い。

手話辞典は、たくさんの語を採録したいみたいだけど(こういう偏見に晒されるから)、これを使って「標準手話」とか「新しい手話単語」とかを学ぶ人は、第二言語学習者ばかりなのだ。あとそれを教える手話講師か。するとどうなるかというと、コミュニティの人たちは置いてけぼりで、学習者だけが新しい単語を使っていることになる。この手話辞典関係は当事者団体の直営の出版局で印刷されて、手話学習者が買い支えている。

辞書を作れば言語が豊かになるなんてことは、ない。必要なのはまとまった談話、そしていろんなことをディスカッションするコミュニティ。

最近こんな本も読んだ。おもしろかった。

この本のサマリーはこの下地先生のツイートと一致すると思われる。


実は最近書いたものに、しかし書き言葉的談話を増やすためには云々書いた私としてはぎくりとするような言説がずらり。そう、言語に優劣はないという信条と、どんな風にその言語を使うか、そして使ったものが見られるようになっているか、また見たいときに見れるか(書き言葉は、時間を越えるが話し言葉は録音録画しないと越えられない)なんてことはやっぱり差がある。

だから私たちはろう通訳者と一緒に手話映像翻訳というジャンルを開拓しようとしてきたのだった。しかし、ホントにこの弁護士先生は、わかってないなりに、我々が潰そうとしてきた差別をほじくり返すのがうまい(褒めてる)。

自然言語

手話は日本語と似せて作ってあるべきだ論に対して私がこんな風に言っている

「日本手話は人工言語でない」という言い方をし、「手話は自然言語です」という言い方を避けている私からすると、これ、とても良いまとめのように見えて、こういうツッコミ入るのはわかる。

「危機言語としての日本手話」(しつこい)では、「日本手話に対して日本語対応手話が〜」という二項対立的な書き方をせず、手話にはいろんな種類がある、でごまかしている。第一言語として身につけるやつと、第二の手段として身につけるやつ。それらが「自然言語」というよりは「十全な言語」になるかどうかはまた別の問題だったりもする。結構難しい。この「十全な言語」何を指すべきかについて、ホントに死にそうになりながらまとめたから、いつか出版されたらまた読んで欲しい。(めっちゃ言語起源論の本とか真面目に読んでみたが、あんまり参考にならなかった・・・)

ちなみに障害者権利条約では「意思疎通手段」と「言語」を分けてあり、かつ、あらゆる意思疎通手段が保障されるべきと書いてある。手話を言語としたことによってなにやら特権的なことが書いてあるのは§21表現の自由 e.「手話の使用を認め及び促進する」と§24の教育の3 (b)「手話の習得及び聾社会の言語的な同一性の促進を容易にすること。」とかである。同一性を促進しようとすると、ただの意思疎通手段とか人工言語では結構厳しい。これは言語としての手話に特化した条文として読みたい。

公用語

日本語という公用語があるんだからほかは要らんみたいなことをこの荒唐無稽なことをいう弁護士先生が言ってたのでとりあえず証拠を。最近「公用語化しろといわれている手話はなんなのか」みたいな論文を書いてました。

難聴者の方だって、字幕だけでいいというわけでもないし、難聴者とろう者は違う。難聴者を手話が必要な人の代表と見なすのもおかしいし、見なされたいと思っているわけでもない。

AIを利用してなんかできるようになる未来は来るのかって話題については私の見解はこれ。

国際手話

国際手話のことも例の本のチャプターに盛りだくさんな感じで入れてあるのでぜひ読んで欲しいが、なんで手話は世界共通じゃないのかといわれたら、そりゃ日本でも日本語を捨ててまで世界共通語を話さないだろって話ではある。

1975年にイギリスのろう者協会がジェスチューノ(国際手話の前身)の辞書を作って普及しようとしたらしい。割と見て指しているものがわかりそうな単語を集めてみたやつだ。でも、頓挫した。

ただ、「国際手話」は残った。国際会議とかスポーツ大会で別々の手話言語を使うろう者たちが、話してるうちに意思疎通の精度が上がってきたその混成言語だ。

この方にはアメリカ手話を習ったら良いとお伝えした。なんかブロックされてるが。

日本手話学びにくい問題と何を学ぶべきか問題

日本手話の学びにくさをどうこうしたいとかいう人もいるが、そもそも聴者に迎合して教えていたらみんな対応手話しか話さず、なんだかずっと抑圧される(日本語対応手話のほうが「きれい」と思われていた)。こういう感覚から脱却して、日本手話ちゃんと学んで欲しい!っていうフェーズに突入して四半世紀経つ。

そういうわけで「手話学んでみたいのになぜか歓迎されない」的な意見は「まあそんなの、ずっと前に終わってます」なんですよ。これも「危機言語としての日本手話」の後半にそれなりに書いてあるので読んで欲しい。(この論文、なんでも書いてあるな)

最近でも手話関係のイベントで、挨拶だけでも手話を、という来賓のかたがいるが、あれの是非は問われるよなあと思う。やらないよりはマシという見方と、ちゃんとした手話通訳つけてくれれば特に要らないという見方と。自己紹介だけできてもろう者と直接話せないからなぁ。良い通訳の正しい使い方を身につける方が重要ではないか。

早稲田大学でやっている「手話の社会言語学」と「手話言語学」はろう者の森壮也先生とやっている授業だが通年の半分が手話言語学で、社会言語学を残り半分にしたのは、手話を語学として学ばない学生さん(語学の手話は定員がメチャメチャ少ない。14人とか)でも、手話についてどんなものか基礎知識を持って社会に出て行って欲しいと願ってのことである。私のメンターがいるニューメキシコ大学の100番系科目Intro to sign languageを参考にして作った。このIntroには数字やら指文字やらの授業も入ってるんだけど、それは入れなかったが。

とにかく、一般教養としての手話では、正しい人とつながって、ろう者とできるだけ豊かなコミュニケーションが取れる、というのが目標なのではないかと思う。それ以上に、手話以外の言語でも、言語で人を抑圧したり抑圧されたりしないための基礎知識も伝授したい。

情報保障の問題と言語学者に知って欲しい話

実は日本言語学会という大手の学会でもなぜか文字通訳にすることに決定!と学会誌にこの春、書いてあるのに遭遇して、割と慌てていた。

この弁護士先生が手話通訳辞めようぜといいだしたのもこれと同じ理由からだったので、穏やかじゃない。

合理的配慮はこの春から事業者にも義務化されているので、割と申し込みがあれば、当事者と話し合い、検討し、お金がなければ別の手段、みたいな感じで「話し合い」がもたれることが期待されている。(障害者差別解消法を参照)

相手が見えない状態でも公的な会見の通訳(メディア通訳とよぶ)なんかはついているけど、これは障害者の権利条約の§21にマスメディアとか公的機関はちゃんと発信にいろんなオプションでやれよと書いてあるからだ。民間の機関は別扱いで話し合いによる解決である合理的配慮メニューに行き着く。

間違って欲しくないのは、「要望を聞かずにやるとかやらないとか決める」は合理的配慮ではないということだ。あと、公的な機関やマスコミが発する情報に情報保障がついてるのは、「あなたたちのことを無視してませんよ」っていうシンボリックな部分があり(言語景観論だ)、その場にろう者がいるわけでもないから、ポリコレに見えるのは、ある意味、その目的をポリコレと感じる人はいても仕方ないところはある(ただ、それで情報を得ている人は当然いる)。

だって、官房長官の会見とか、国会とか、言葉遣いが難しすぎて、本当はかみ砕いた報道のほうに情報保障がついてた方がよっぽどわかりやすいかもしれないのに、そっちには通訳がついてなかったりするもんな。なんで日本語では解説するのに、そこに手話はないのか? って考えたことはあるか? あるいは日本語の解説はなんであるのか? というか。

で、学会とか研究会にろう者がきたいとか、手話研究者が発表したいから手話通訳つけて欲しいみたいな話をしたとする。するとこう。

電話リレーサービスを公的なサービスにした立役者の石井さん↑

本当にお金が切実な話で、実は「権利論」というのは、誰が権利を保護する主体として責任を負うかという話である。

「誰が誰の権利をどうやって」について、現行の「合理的配慮」の仕組みだと、「みんなが(事業者とか)」障害者差別をなくすためにがんばって、と政府からぶん投げられている状態で、聴覚障害の人がくると突如費用がかさむ(言語だから)。それをAIとか体よく安くなんとかしようとしたり、手話通訳は福祉だからと値切ろうとしたりして、結局また「ろう者に情報が伝わらないで、ろう者が低い地位に置かれる」を繰り返すことになる。

言語学者は、言語の専門家だ。できれば「言語の仕事なんだから」という根拠を一緒に支える仲間であって欲しいし、「高すぎて払えないのは国の制度がおかしい、なんか補助金出せ」という話にするならするで「スンッ」って無視してないで、一緒に知恵を出す側の方たちであって欲しい。

実は、手話言語学をはじめたとき、こんなことに自分が積極的に関わるべきだとは思っていなかった。だから、手話を研究対象にしていない人たちはもっと遠目に見ていると思われる。ただ、我々言語学者にとってちょっと囓れば当然とわかるようなことが、一般の人には割と理解されない。だからこそ、言語学者は言語差別の是正に携わるべきだし、手話がわからなくても手話に関する知識は普通の人よりよっぽどスッと理解できるわけだから、力を貸して欲しいのである。

(ちなみに電話リレーサービスは、皆さんからの電話リレーサービス料を原資にしているというリプライが、なんとその会社の社長からあったので掲載しておきます)

(おしまい)

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