その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ
自分にとって「譲れないこと」ってなんだろう?
そんなことを考えるきっかけになったのは、友人から、
「同じテーマについてお互いに考えて、noteに書いてみようよ」と提案してくれたからだった。
今まで手帳に書いていたようなことを表に出す気恥ずかしさもあったけど、
せっかくの良い機会だと思って久しぶりにnoteを開いてみた。
「譲れないこと」を考える前に、まずは「譲る」とはどういう意味なのか。
辞書で調べてみると、モノを分け与えるという物理的な意味の他に
「自分を後にし他人を先にする」
「自分の主張を抑えて他人の主張を通させる」
と書いてあった。つまり「譲れないこと」とは
「他人(の主張)を抑えてでも通させたい、自分の主張」
と言い換えることもできる。
…なんてエゴイスティックな響きだろう。
zoom会議で話すタイミングが被ったら必ず譲るような自分に、
他人を押しのけてでも主張したいことなんてあるだろうか。
むしろ、最近のSNSではそういった主張が溢れすぎてて、どちらかというと忌避している感覚すらあった。
毎日何かしらに怒っている人。
自分と違う考えは許さないぞという強引な考え。
自分のことを棚に上げられる無責任さ。
そんなSNSでの主張を見るたびに、食後のお腹パンパンな状態で、さらに油ギトギトの唐揚げと山盛りポテトが運ばれてきたような、
「もう脂っこいのは勘弁してよ…」とげんなりする気持ちになることも増えてきた。
自分から情報をのぞきにいっているのに、もう放っといてよ、と矛盾した気持ちになることも多く、
去年くらいから断捨離をするように、フォロー数も半分近くまで減らしていった。
なんでそんなに怒れるんだろう。
なんでそんな言い方するんだろう。
その気持ちって、わざわざ表明する必要あるのかな?
特にこの1〜2年、コロナ禍になってより一層そんな気持ちが積み重なってきているように思う。
そう考えたときに、ふと思った。
この気持ちも、自分にとっての主張なんじゃないか?
「受け手の気持ちを無視して、一方的に主張することってどうなの?」という主張。
「関係ないのに、外野からあれこれ叩くのってどうなの?」という主張。
「あなたのためだから、と言って自分の考えを押し付けてくる人ってどうなの?」という主張。
そういう「相手を理解しようとしない姿勢」に対し、ゲンナリしているこの気持ち。
裏を返せば「相手を理解したい。少なくとも理解しようとする姿勢は持っていたい。」という自分の心の主張なんじゃないか。
そういえば、ハンター×ハンターにもこんなセリフが出てくる。
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」
怒り、とまではいかなくても、違和感や心の引っ掛かりを感じていることは、その人とっての大切にしている気持ち=譲れないことと言えるのかもしれない。
ただ、この「相手を理解したい」という気持ちが強過ぎて、
必要以上に相手のことを考えて言いたいことが言えなかったり、
裏側の気持ちを勝手に想像して苦しんだりすることも度々あった。
そんな時、「鈍感な人の方が生きやすいよなぁ。この考え方を変えられないかなぁ。」と思ったことも一度や二度じゃない。
けれど、「そこが良いところだよ」「それでいいじゃん」と言ってくれる周りの人のおかげで、
最近は「それも含めて自分だな。それもひとつの特徴なのかな。」と少しずつだけど受け入れられるようになってきた。
自分と他人の距離感。
発信と受信のバランス。
相手を理解する姿勢と、理解できない部分もあるという事実。
その辺りにうまく折り合いをつけながら、自分にとっての「いい加減」を見つけていけるといいなと思う。