After東京五輪~これから新体操はどこに向かうのか? <5>
「2007パトラスの歓喜」~フェアリージャパンの大きな一歩
2006年から日本では、本格的に「選抜団体方式」での強化が始まった。1つの所属でのチームを「日本代表」として国際大会に派遣するのではなく、選抜されたメンバーで団体を組むという意味での「選抜団体」は、シドニー五輪後から行ってはきていたが、なかなか結果に結びつかなった。
その大きな要因が練習時間の確保の難しさにあり、チームとしての一体感を構築できていなかった。2006年からは、そこを改善するために「通年合宿」という思い切った手段をとった。ほとんどの選手が高校生だったが、高校も通信制。合宿と言っても、食事は自炊しなければならなかった。
それでも、この年から国際大会への出場機会は増えていった。また、正規のトライアウト以外にも有力選手の補強も行い、徐々にチーム力は上がっていった。2006年11月には、三重県でワールドカップ決勝が行われ、そこに日本の団体も出場したが、「フープ&クラブ」で7位。日本の団体の未来に光明が射した、と思える演技を披露した。
2006年末には、この年のジュニアチャンピオン・田中琴乃も加入し、2007年9月、ギリシアのパトラスで開催された世界選手権では、団体総合7位に入り翌年の北京五輪への出場権を見事獲得。2000年のシドニー五輪以降、遠ざかっていた世界の舞台に日本はやっと戻ることができたのだった。
チームを支えた三澤樹知のキャプテンシー
当時のフェアリージャパンのキャプテン・三澤樹知は、2006年6月に補強メンバーとしてチームに加入した選手だったが、抜群のリーダーシップでチームの牽引役となった。インタビューの受け答えなどもクレバーで、常に強気だった。正直、この頃のフェアリージャパンに対しては、まだ「大学生のほうがうまい」「五輪の切符などとれるわけがない」などという声もあった。
結果が出せなければ、そういう声はますます大きくなっていくことは容易に想像できた。当然、選手たちも不安は常に抱えていたと思う。どんなにプレッシャーも大きかっただろうと思う。
それでも、公式の場での三澤は常に気丈だった。「私たちも経験を積んで強くなってきている」「やるべきことはやってきている」と言い切った。北京五輪出場を懸けた大一番の2007年世界選手権のとき、彼女はまだ高校3年生だったが(フェアリーメンバー全員が高校生だった)彼女のその強い意思がチームを引っ張り、重い扉を開ける原動力となっていたことは間違いない。
「日本のダブルエース」の現役引退
2007年は、日本の団体にとっては2大会ぶりの五輪出場が決まった歓喜の年だったが、個人競技に目を移せば、大きな喪失を迎えた年だった。アテネ五輪後も、日本のトップ選手として君臨し続けていた村田由香里(東京女子体育大学大学院)と、村田の好敵手だった横地愛(イオン)が11月の全日本選手権を最後に現役を引退したのだ。同世代で常にひりひりするようなトップ争いを繰り広げ、まったく違う個性で観客を魅了し続けた二人の引退は、ひとつの時代の終わりを感じさせるものだった。
団体の五輪切符獲得で沸いた2007年の世界選手権にも二人は揃って出場していたが、個人での五輪出場枠を獲得できなかった。アテネ五輪以降、日本の強化は完全に団体にシフトしており、この結果になったのは無理もなかった。それでも、この世界選手権には、長く日本のトップとして走り続けてきた二人を「ここまで」と決意させるものがあったのではないか。
村田由香里が最後に見せたもの~2007全日本選手権
二人の引退試合となった2007年の全日本選手権は、個人前半2種目では、日高舞(東京女子体育大学)が暫定首位に立つという「新旧交代」を予感させる展開だったが、最後の最後に横地が逆転し、自身初の全日本チャンピオンになるという劇的な幕切れだった。
表彰式後には引退セレモニーが行われ二人のエキシビション演技も披露されたが、その演技の美しかったこと。とくに、現役時代は「強さ」のほうが目立っていた村田が、最後のエキシビションで見せたたおやかさ、美しさ、儚さ、そして表現の細やかさは、「選手として」ではなく表現者のそれだった。無敵のチャンピオンに見えていた村田が、勝ち続けるために封印していたものを最後の最後に見せてくれた。そう感じた。
フェアリージャパンは、五輪に向けて離陸し、個人では「村田・横地時代」の終焉を迎えた2007年。そして、団体だけが出場する北京五輪はもう翌年に迫っていた。 <続く>