After東京五輪~これから新体操はどこに向かうのか? <4>
「背水の陣」~2005年世界選手権
日本にとっては、やや寂しい大会となってしまった2004年アテネ五輪を終え迎えた2005年は、日本の新体操が新しい方向に向かって進み始める節目となった年だ。
この年、山﨑浩子氏が新体操強化本部長に就任。シドニー五輪時に日本の団体を5位に導いた名伯楽・五明みさ子氏をヘッドコーチに据え、再度、「選抜方式団体(1つの所属ではなく選抜された選手たちでチームを編成する)」での世界選手権に挑戦することになった。
が、今回は、アテネ五輪前のような「潜在能力重視」の選抜ではなく、すでに実績を残している選手たちが選ばれた。このときのメンバーは、大貫友梨亜、東川歩未、井上実美、古城梨早、高橋麻理子、日高舞。大貫以外は、まだ高校生だったが全日本ジュニアでも優勝したり入賞したキャリアの選手達だった。ジュニア時代に日本トップレベルでの団体経験もありいわば即戦力を集めた「ドリームチーム」。なぜなら2005年の世界選手権は10月にバクーでの開催が予定されていたが、チームの発足が遅れていたため、実質の準備期間が半年足らずだったからだ。
これでは、「育てれば伸びるかも」な選手では間に合わない。いや、キャリアのある選手たちをもってしても、かなり厳しい挑戦だった。このときのチームは、夏場には様々な大会にエキシビションとして演技披露をしていたが、ノーミスの演技はほぼ出ていなかった。ときには「大丈夫なの?」と見ていて不安になるような失敗続きの演技になってしまったこともあった。
が、一方で、「さすが!」「これが日本のチームか!」と誇らしく感じさせる部分も多かった。個人選手としてその世代のトップレベルにある選手が5人で見せる演技は、たしかにハイレベルで「日本代表にふさわしい」と感じられるものがあった。
ドリームチームが起こした「バクーの奇跡」
国内でのエキシビションではミス続きだったこのチームだが、世界選手権本番では、見違えるような勝負強さを見せ、団体総合で21チーム中9位、種目別決勝リボンでは6位という結果を出した。
メダルに届いたわけではないが、当時の日本にとってはこれは「奇跡」に近い結果だった。
おそらく。
2003年の世界選手権で五輪出場権を逃し、この2005年の世界選手権でも下位に沈んでいたならば、世界からは「日本の団体は問題外」と見られていただろう。そして、国内でも「選抜方式は無理」と判断されていたのではないかと思う。
2005年のメンバーも所属も居住地もバラバラで練習場所も定まっていなかった。練習場所まで行くのに2時間かかる、などということもあったと聞く。高校生活を続けながらのその生活はどんなにかハードだったろうと思うが、そんな環境でもこの結果を得ることができたのは、選抜団体メンバーになる以前に、彼女たちがそれぞれに身につけていた力ゆえだったと思う。本人たちの努力、そして所属での指導の賜物だった。それが「選抜団体」という場で開花した。2005年のチームはそんなチームだったように思う。
そして、これが現在も続く「フェアリージャパン」の初代メンバーにあたるのだ。
2006年、合宿生活による団体強化が始まる
2005年年末、フェアリージャパンのトライアウト(当時はオーディションと呼ばれていた)が行われた。全国から「日本代表」を目指す選手たちが集まったが、現在のトライアウトに比べると圧倒的に人数は少なく50人ほどだった。それでも、集まった選手たち、指導者たちに対して、山﨑強化本部長は「受けにきてくださってありがとうございます。選手をここに送り出してくださってありがとうございます。」と言った。
このトライアウトに合格したら、「年間通しての合宿生活」「指定された通信制高校に籍を置く」ことがチーム入りの条件となっていた。まさに、「新体操に青春を懸ける」覚悟が問われるトライアウトであり、それでも先がどうなるかの保証もなかった。能力や素質があっても、飛び込むには勇気がいる。当時のフェアリージャパンはそんな存在だった。
そのまま所属クラブで頑張っていれば、インターハイやインカレでも活躍できるだろう選手を送り出すことを望まない指導者もまだ少なくなかった。そんな中での船出だったため、「受けてくれてありがとう」は、当時の山﨑氏にとっては偽らざる気持ちだったのだろう。
このトライアウトで合格した選手たちは、2006年4月から、千葉県で合宿生活に入った。通年の練習場所として体育館を確保した県立大宮高校から自転車で移動できる距離のマンションでの自炊生活だった。「女子高生たちの『新体操虎の穴』」として、当時の様子はテレビなどでもよく取り上げられていた。「フェアリージャパン」は、2005年メンバーや2006年からの合宿生活に飛び込んだ選手たち、こういった創成期に関わった人たちが小さな固い芽から育ててきたものなのだ。 <続く>
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