After東京五輪~これから新体操はどこに向かうのか? <1>
1980年代の新体操
「新体操」といえば、「『タッチ』の浅倉南ちゃん!」と言われることが多かった。いや、今でもそういう認識の人も少なからずいる。それだけ『タッチ』という漫画(アニメ、映画)の人気が絶大だったという証明でもあるが、そもそも『タッチ』が漫画誌で連載されていたころの新体操の知名度はほぼないに等しかったのだ。
『タッチ』が少年サンデーで連載されていたのは1981年?1986年にかけてだが、新体操が初めてオリンピック競技に採用されたのが1984年のロスアンゼルス大会。『タッチ』の南ちゃんも連載途中で高校生から新体操を始めるという設定だったが、このころはまだそういう時代だったのだ。
ロスアンゼルス五輪に日本代表として出場したのは、2021年の東京五輪、世界選手権まで強化本部長としてフェアリージャパンPOLAを率いていた山﨑浩子氏だが、山﨑氏も新体操を始めたのは中学生になってからだ。
ロス五輪とソウル五輪(1988年)に連続出場した秋山エリカ氏(現・東京女子体育大学新体操競技部部長)も、バレエ、体操競技の経験はあったものの新体操を始めたのは高校生になってからだった。五輪種目になったばかりの1980年代の新体操は今から思えば牧歌的な競技だった。
また当時は、まだソビエト連邦があり、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどは「ソ連」という一つの国だったため、世界大会でも「ソ連」「ブルガリア」が2強で、アメリカや日本にも上位に入り込む余地があった。ロス五輪での個人優勝者はカナダの選手だったし、山﨑氏も個人総合8位入賞、秋山氏も1989年の世界選手権では個人総合8位入賞を果たしている。(注:1984年のロス五輪は、ソ連、ブルガリアは政治的理由で出場をボイコットしている)
戦後間もなく始まった全日本選手権
ロス五輪以前は、ほとんど脚光を浴びる機会もなかった新体操だが、じつは日本での歴史は古い。新体操の国内最高峰の大会である全日本新体操選手権は1951年に第4回が開催されている。おそらく1948年が第1回なのだろうが、歴代優勝者の記録が4回からしか残っていない。しかも、第4回の優勝は女子団体の東京女子体育大学のみ。当時は団体競技しか行われていなかったようだ。
ちなみに男子団体は、1954年の第7回大会で一度行われており日本体育大学が優勝しているが、その後、1960年までは女子団体のみが行われ、1960年の第13回大会から男女団体競技が揃って行われるようになっている。
全日本選手権の個人競技の記録が残っているのは、女子が1968年の第21回大会、男子は1969年の第22回大会からだが、その後も個人競技は実施されなかった年があるのか、優勝者には抜けがある。男女とも団体、個人が揃って行われるようになったのは1974年の第27回大会で、この後は現在に至るまでずっと男女個人、団体とも優勝者の記録が残っている。前述した山﨑浩子氏は、1979年から1983年まで女子個人総合5連覇、1984年から1989年までは秋山エリカ氏が6連覇。この2選手が1980年代の新体操を牽引していたことがうかがえる。
現役引退後も、指導者として大きな功績を残してきた2人だが、現在、指導者となっている人達の多くは、現役時代の山﨑氏、秋山氏を見てあこがれ、尊敬していたという人達だ。選手としても指導者としても2人の残してきたものは大きい。
1990年代の変化~クラブチームの台頭
秋山氏が現役引退した後、全日本チャンピオンになったのは、川本ゆかり(1990~1994/5連覇)、山尾朱子(1995~1996/2連覇)、松永里絵子(1997~2000/4連覇)だが、川本以降のチャンピオン達が、山﨑・秋山世代と大きく違っていたのは「小学生のころからクラブチームで新体操をやってきていた」ことだった。
ロス五輪が開催された1984年には、第1回の全日本ジュニア新体操選手権が開催されており、川本、山尾、松永らはジュニア時代から全国のトップレベルにいた選手たちだ。ロス五輪で新体操が採用されることが決まったときから、全国にクラブチームが生まれ、小学生から選手育成を始めていたことが実り始めてきたことが、この1990年代のクラブチーム育ちの選手たちの活躍に繋がっていると思われる。
そして、この流れは、2001年に全日本チャンピオンとなり、そこから6連覇を果たす村田由香里に引き継がれる。
歴史に残る2000年シドニー五輪での日本団体の健闘
また、1996年のアトランタ五輪から団体も五輪種目になったことも、日本の新体操の命運を大きく変えた。日本は、アトランタ五輪の出場は逃したが、1999年の世界選手権で見事4位入賞して出場権を獲得し、2000年シドニー五輪では5位入賞(現在でも日本の五輪での団体競技成績はこれが過去最高順位である)。当時、新体操王国と呼ばれていたブルガリアに加え、ソ連崩壊後、ロシア、ベラルーシ、ウクライナと新体操強国が増え、競争が激化していた個人競技に比べると、同調性には秀でた日本にとっては「勝負できる可能性」のある種目として、強化の中心に団体が据えられるようになってきたのだ。 <続く>