【感想】「遠い指先が触れて」(著:島口大樹)|物語の視点としての一人称
概要
デビュー作「鳥がぼくらは祈り、」で完全にファンになった島口大樹さん三作目です。島口さんの書く文章って理路整然としていて、一文が長いわりに読みにくさがなくてすっと入ってくる印象があるのですよね。その安心感があるから、読む前から自分の好みに違いないという、自分にとって信頼感を持てる著者です。
デビュー作からして完全にそうですが、本作も小説という媒体の中でできる表現を突き詰めていっているような作品と感じました。
感想
文体:物語の視点としての一人称
著者の島口さんは、どの作品も既存の概念に縛られない文体によって、小説に奥行きを出そうと試みている人だと自分は理解しているのだけど、本作では、物語の視点(=読者が物語を眺めるときの視点)を、文章上の一人称をうまく使って映像的に切り替えている作品。
本作は基本的に一人称視点で物語が進んでいき、その中では、主人公である一志の一人称「僕」と、もう一人の主人公・杏の一人称「私」の二つが登場する。通常、物語のシーンの切れ目で空白行を挿入したり、章を分けたりして「ここで視点が切り替わりますよ」という合図みたいなのを作るのだけど、本作はむしろ逆で、文章内でシームレスに「僕」と「私」が切り替わる。なので、ずっと「僕」視点の話を読んでいると思ったら、どこからか急に「私」視点になっていたりして、映像的に物語の視点がいきなりピントが合うような視覚的な/映像の視点切り替え的な効果が生じている。さらに白眉なのは、一文の中で一人称として「僕」と「私」が登場してくるところもあるんですよね。
普通に読んだら意味が分からなくなりそうなのだけど、文章が整然としているから、何故かすんなり読めてしまう、そんな不思議な文章なのが島口さんの特徴だと思います。ちなみに、上記の引用はどちらもページまたぎ(上はページをめくると視点が「私」⇒「僕」に変化し、下は見開きの真ん中を超えると視点が「僕」⇒「私」に移り変わる。)なんですよね。視点の切り替わりに、(通常やるような空白行とかではなく)ページの切れ目をはさむというのが何ともオシャレです(狙ってこの構成になったのかはわからないけど。)。
冒頭の出版社HPの紹介文にもあるけど、「文体が映像として浮かび上がる二人の視点の入れ替わり」というのは本当に言い得て妙で、小説なんだけど映画のように視点(フレーム)が固定されて、文章上の一人称視点に寄ってそれが切り替わるという、小説では見たことがない表現だと思いました。
奪われた記憶を取り戻す物語
物語の内容面は、大きな組織に奪われた自分とパートナーの記憶を取り戻しに行くという、それほど珍しさはないようなストーリーラインですが、「僕」と「私」が姉弟だったというのは、文体上で視点が混然一体となるところから、血のつながりが示唆されているのかなと理解しました。つまりは、一人称視点の移動が、作品視点の画定として機能しつつ、物語の肝においても有機的に効果を発揮しているように感じました。
デビュー作でも強く感じましたが、著者の島口さんは映像で小説の物語を作っているんじゃないかなと勝手に想像しています。次作は映画のノベライズを手掛けられるようで、そちらも楽しみにしています。
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