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私がエッセンシャルマインドを手に入れるまで―最愛の母が命をかけて教えてくれたこと―

真面目だった幼少期(幼少期編:100点じゃなきゃダメだった私)、一貫校から外の世界に初めて出て自分のキャラを見失った大学生時代(孤独な大学時代とアイデンティティの喪失)、幸せな日常の中でも、私なりにもがきながらセルフリライアンスを獲得するきっかけを得てきましたが、今回は、これまでの人生の中でも、一位、二位を争うほど、私にとって人生を左右することになる大きな出来事についてお話させていただきます。


🌑永遠に生きる母の無償の愛🌕

私は、母の教育熱心でありながらも、深い愛情に包まれて育ちました。母は専業主婦に徹して、全ての時間とエネルギーを育児に注いでくれました。
勉強しなさいと言われたことはほとんどありませんでしたが、結果が悪い時には厳しく、時には様々な制限を設けられることもありました。

母と私(2歳の頃)

反抗期や、自由になりたい大学時代には、衝突することもたくさんありました。それでも、いつも変わらぬ愛情を感じていました。母はどんな時も私たち姉妹に関心を持ち、真剣に話を聞いてくれました。時間を忘れて夜明けまで母と話し込むこともあり、どんな小さな悩みでも親身になってくれたことは今でも鮮明に覚えていて、心の支えになっています。

思い起こせば浮かんでくるのは、

クラスメイト全員・お世話になっている先生全員の名前とキャラクターを覚えていて、常に私と同じ情報量で学校の出来事を真剣に聞いてくれたこと

中学校でいじめられた時、全面的に味方になって毎日励まし寄り添ってくれたこと

中間・期末試験では徹夜をする私に夜食のお菓子をたくさん買って応援してくれたこと

生け花のお稽古で持ち帰った花を家で玄関に生け直すと、決まって真っ先に走り寄って見に来てくれて、毎回大げさなくらい感動を表現してくれたこと

そして

七五三のお祝いの席で


母自身は経験のないことに対してでも、母の「大丈夫」という言葉は私にはとても力強く響き、それを聞くと「あ、私絶対に大丈夫だ」と想えたものでした。

母が最後の「大丈夫」を贈ってくれた時のことを今でもはっきり覚えています。会社員になって入社1年目で、60人規模の歓送迎会の幹事を担当していた時に、どうしても適した会場が決まらず、夜な夜な捜し歩きながら半泣きで母に電話をした時に
「大丈夫、きっといいところ見つかるよ。今まで見たところでもいいんじゃない?」
と言われ、とても楽な気持ちになり、その直後に、良い会場が見つかったのです。

そして、その1か月後に母はこの世を去りました。

🌑母との別れから得た新たな価値観🌕

母は50歳で他界し、その時私は23歳でした。育児を全うし、まさにその役割を終えたかのように、母は私たち姉妹を世に輩出すると同時に、この世を去ったのです。

母との最後の3月・大学の卒業式の日に。命を懸けて育て上げてくれて本当にありがとう。

母の死を受けて、私は「明日何が起きるか分からないんだ」と、人生のはかなさを痛感しました。しかしその時点では、「もし今人生を終えたら、後悔しかない」と強く感じ、同時に後悔の無い人生を送るべく一日一日を全力で生きる決意をしました。

あまりにもあっけなく天国に行ってしまった母。当時はどうにか気丈に過ごすことで精いっぱいでしたが、徐々に悲しみや実感が湧いてきます。

生け花のお稽古から帰って、実家の玄関に花を生けても、飛んで見に来てくれる母はそこにはもういないと気づいた時。

母に無性に触れたくなったけれど、触れられないんだと思った時。

何かを相談したいと思ったけれど、もう母はいないんだと思った時。

あの根拠はなくても無敵な「大丈夫」が欲しくなった時・・・。

母の死後、一年間、私は毎晩泣き続けました。母は、私にとって一番の話し相手であり、理解者でした。夢の中に頻繁に出てきてくれたこともあり、夢で母に会えることを楽しみにして、とにかく寝たいとさえ思う日々。そして母のいない現実に気づく朝。

大学時代にイタリア旅行にて。この後、5年も生きないだなんて知る由もありませんでした。

母を失ったことで、私はまるで言語障害のように言葉が出なくなってしまいました。小さい頃からおしゃべりで、友達からは「おもしろい」と言われ、学校では人前で話すことも多く、大学時代に付き合っていた彼には私を見ていると「テレビ見てるみたい」と言われるくらい、私はよくしゃべり、相手を笑わせることを生きがいとしていました。それなのに、母を亡くした後、言葉が思うように出なくなり、まるで自分が別人になってしまったかのように感じました。

🌑再び歩き始めた日🌕

母が亡くなってから一年が経った時、私は「このままではいけない」と強く思い立ちました。いつまでも時が止まったように、悲しみに暮れ続けることを、母は望んでいないはずだと感じたのです。それから、私は「母が命を懸けて伝えてくれたメッセージは何だろう?」と問いかけ続けるようになりました。

母がもうこの先永くないと自身でも悟った時に、枕元に呼んで私に残してくれた言葉、「好きなことをがんばってね」というメッセージは、私の心の中に今でも生き続けています。

何年経っても、私の胸の一番近くで、その笑顔で見守ってくれています

そして私なりに、母の急逝の原因を突き詰めた結果、様々な要因があることは大前提とした上で、一つのkeyはやはり「健康」でした。母の食生活を振り返った時に、改善の余地はたくさんありそうな気がしました。それから、「真の健康」について本気で学び続け、私自身の妊娠期・産後の育児にも
その学びを活かしてきました。健康への学びを始めてから10年が経ち、家の中には「悪いものは何一つない」というくらいの徹底した知識と実践を行いました。しかし、それが行き過ぎてしまったのか、共感者が少なく孤立する時期もありました。自然派育児や健康志向を追求するあまり、人間関係に亀裂が生じたこともありました。この話は後の「育児鬱」にも少なからず影響を及ぼしていきます。


母が他界して15年になりますが、もちろん今でも、母に会いたい・触れたい・話したいと思うことはあります。懐かしさに涙を流す時もあります。

しかし、根本的に、母は今も私の心の中の一番近くにいてくれていると感じていますし、母が命をかけて教えてくれたことを余すことなく感じ取り、実践することで母の供養となっていると信じているので、私は今日も心の中の母と共に前向きに進むことができています。

そして、何より、母の死後、決意した自分との約束「明日何が起きても後悔しない生き方」を今はできていると、胸を張って言うことができるようになりました。

ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。
私がエッセンシャルマインドを手に入れる過程をお伝えすることで、
少しでもあなたのヒントと希望になりますと幸いです☆彡

次回は、社会人になった私の葛藤についてお話いたします。

🌑エッセンシャルダイアリー📔とは?🌕

私のように、自分自身との向き合いが却って自分を苦しめている人、或いは、もう一歩、勇気と自信を持てたら自身の力を思う存分発揮して社会で活躍したい!という方のために、私が穏やかで自分らしく笑顔溢れる毎日を送れるようになった、セルフリライアンススキルを再現可能な形で届けたいという想いで創ったワーク式のダイアリーです。
ぎゅぎゅっと28個のワークにまとめていますので、お月様がぐるっと一周するのと、ご自身の進化の過程をぜひ歩調を合わせて取り組んでみてください🌑🌓🌕このワークの順に取り組むことで、誰でもいつからでも、エッセンシャルマインドを手に入れることができるようになっています☆彡

エッセンシャルダイアリーHP

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エッセンシャルマインドトレーナーReZA🌈

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