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「ルーさん」と呼ぶと大学院入試で「講義」したのを思い出す2024年7月22日

兵庫教育大学の大学院ができて間もない頃に学校教育専攻に音楽科が解説され私はその2期生として入学しました。

名古屋大学の大学院の入試のかなり前にその大学院の入試は実施され、大学の指導教官からは「音楽教育史をやるなら音楽の専門の先生のいる大学院も受験してみればどうか」と勧められていました。
試験会場は学校の教室よりも広く、真ん中にグランドピアノが置かれていて、その向こうに長机が3つか4つ、真篠将先生や保科洋先生など7,8名が並んで座っていました。

試験の要項では実技はないとのことでしたので、このピアノは何かと思いながら、いくつかの質問の受け答えをしていました。
とうとう「そのピアノでその楽譜に伴奏をつけて弾いてみてください」と言われて、さすがにそのときは焦りました。
実家にいるときはときにピアノも弾きましたが、名古屋に下宿しているときはオーボエを吹くか、小さい演奏会の指揮をするかぐらいだったので、楽譜は読めてもピアノを弾くために手を動かしたことは随分前です。

結局、示された旋律に、主要三和音の和音を鳴らしながら最後までたどり着くという体たらくで、私よりも、試験管の先生方の方が最後まで到達したことにほっとするのがありありと伝わるものでした。

そして私の専門についての口頭試問になり、明治期初頭に伊沢修二がどのようにアメリカで音楽教育を学んだかを簡潔に説明せよ、というようなことを指示されました。

そこで「伊沢修二はボストンで音楽教育者のメーソンと出会って音楽を学びましたが、私の見た音楽教育の概説の本で、このメーソンについてきちんとした説明がなされているものがほとんどありません」と私は答えました。

その言葉に、真篠先生やその他の先生方が身を乗り出すようになったので、ここから私に「スイッチ」が入りました。

つまりは、

伊沢修二に音楽教育を教え、来日して明治期の音楽教育の土台作りに協力したのは「ルーサー・ホワイティング・メーソン Luther Whiting Mason」(1818~1896)
その先生に当たるのがアメリカで最初の音楽博士となりボストン音楽学校を設立した「ロウエル・メーソン Lowell Mason」(1792~1872)
両方とも「L・メーソン」となるが、血縁関係はなく、全くの別人にもかかわらず、多くの日本の関係書では両者が一人の人物としてまとめられてしまっている

ということを、私はずらっと並んだ試験管の前で自信に満ちて話したのです。と言うのも、大学卒業論文を書くときも、ここのところがはっきりせず、あちこちに書いてあることがバラバラで、結局、アメリカの音楽教育の歴史の詳しい文献を調べて、「L・メーソン」が2人いて、それぞれ別の業績を持っていることを、はっきりさせたからでした。

なんと、それをメモを取りながら聞いてくださる先生もいました。
今から40年以上も前の話です。
さらには
「それは知らなかった」
「メーソンは2人いたのか」
「ボストン音楽学校を作ったメーソンが伊沢修二とともに音楽取調係(現東京藝大)を作ったと思っていた」
などと口々に言っています。

大学院の入試のときの話です。
結局、その大学院に進学することになったのですが、指導教官になっていただいた真篠先生は「あのときの君の講義は大したもんだったよ。他の先生たちがみんな感心してしまって、まるで立場があべこべになったようだったなあ」といつまでもにこにこしながら言っていました。

今では、「ルーサー」と「ロウエル」をあいまいに混同している音楽教育書はありません。ないはずです。
また、こんなことにまったく関心も持たずに音楽の授業をしている教師が当時は校種を問わず無数にいました。
日本の学校に音楽教科がどうしてあるか、またそこにどのような理念があって受け継がれ、これからも大切にされなければならないか、その経緯も含めてきちんと説明できる音楽教師は増えていることを信じたいものです。

そうでなければ、ますます音楽教科は、よくある楽しければいいというだけの時間になり、そんなものは時間の無駄で、それぞれ家で楽しめばいいのだ、などと学校教育から追い出されてしまうでしょう。

「ルーさん」の「ルー」は、エリック・サティ(1866~1925)が21歳のときに生活のためにピアノを弾きに行っていたカフェ『黒猫』(ルシャノワール  Le chat noir)からつけたものです。
その『黒猫』時代に作曲出版されたのが有名な「ジムノペディ」です。
またそのカフェで、サティは、ドビュッシー、ピカソ、コクトー、プーランクなどと出会っています。

子猫が黒猫だったので、拾った息子がそのまま猫の名前にしたのでした。
それを考えれば、「ルーさん」の「ルー」は定冠詞の「le」で、黒でも猫でもありません。
「ルーさん」と声をかけたあと、必ず「ルーサー・ホワイティング・メーソン」と私はつぶやいて、あの滑稽な大学院の入試の場面を思い出します。

この「ルーサー・ホワイティング・メーソン」が日本に初めてピアノ教則本というものをアメリカから持ってきました。
それがピアノ教則本の『バイエル』です。
私の家のどこかに、かつて手に入れた立派な表装の、その時代の『バイエル』があるはずなのですが、また見つけたら紹介します。

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