コキュとサレ妻

不倫を題材にした映像作品が流行っている。不倫を題材した流行作というと、最近の流行の「サレ妻復讐モノ」以前にも、1990年代には渡辺淳一の『失楽園』、80年代の『金曜日の妻たちへ』(金曜日のスマたちへ、というパロディタイトルでしか知らない)や1950年代の三島由紀夫の『美徳のよろめき』などがパッと思い出される。古い方から言えば、三島らしいお嬢様冒険(姦通)モノから、都市住まいにおけるリアルな不倫作品となり、『失楽園』は不倫の末の心中で終わる。

パッと浮かんだ3作品で厳密に時代を語るつもりはないが、不倫のイメージの変遷に沿っているように見える。
1950年代には不倫はお嬢様のやる事であり、庶民にはファンタジーであった。その時代に不倫がなかったなんて事はなく、戦後、性道徳が開放的になった状況へのアイロニーであろうが、そうした作品が成立したのは、当時の婦人の性が現代より抑圧的であった反映でもあるだろう。金妻、において不倫はファンタジーではなく、都市住民の生活の隣人となった。生活しながら不倫は始まり、不倫は終わっても生活は続いていく。『失楽園』において、再びファンタジーに戻ったかといえば、そうではない。不倫は始まり、男女の生活を壊し、その愛は現世では叶わない。純愛はもはやリアルにはない、というリアルだった。

最近の不倫作品は、バリエーションが豊かだ。私がたまたま見た『ホリデイラブ』は、不倫相手の女性がクレイジーで最後は破滅し、主人公夫妻は元サヤになった。そうした不倫大豊作の中で、「サレ妻復讐モノ」はジャンルを確立した。SNSでサレ妻が実際に夫に復讐する過程をツイートしたりと、リアルでもジャンルを築きつつあるようだ。

私が幼少の頃、父親の本棚で盗み見た大人向けユーモア本の中に、「コキュ」というワードがあり、「妻を寝取られた男。フランス語」という説明があった。「寝取られた」という意味を、理解してはいなかった。ただ、結婚している相手を取られる事なのだろう、という漠とした悲しさを感じるべき言葉のはずなのに、その言葉に続く説明の、コキュが笑うべき対象であるような説明に、強く打たれた。「自分もいずれコキュになり笑われるのだろうか」と、幼少の私は本を、他の本を戻すよりも丁寧に戻した。

その時から「コキュ」は、私がいずれそうなるべき恐怖の対象でありつつ、笑うべき対象でもあった。幼少から青年にあがり、「寝取られた」という意味をおぼろげに知りつつも、結婚から遠い所で私は、不倫に限らず浮気される男の話があれば、笑った。物語として知る事もあれば、リアルの友人が浮気された話を聞かせてくる事もあった。その話が深刻な裏切り、奥深い用意周到さを持てば持つほど、目の前の友人の心痛に関わらず、私は深くおかしさを感じた。それは決して、嘲笑だけではなかった。私もいずれ、笑われるのだろうという予感があった。それは人生の、ユーモアだ。笑顔になるユーモアもあれば、涙を流すユーモアもある。

と言いつつ、私は「コキュ」になる事はなかった。浮気されるためには、その前に付き合わなければならない。そうした点から、私は長らくコキュでありうるかもしれないという名誉に属さず、人生の長い時を過ごした。コキュになるだろうという幼少の予想は、コキュになる可能性すらないという意味で、きちんと外れた。ありがとう人生。

「コキュ」にはおかしみがあり、「サレ妻」にはない。少なくとも、復讐とセットになっている限り、笑うべき要素がない。フランス語における「コキュ」の正確な意味を私は知らないが、いろんな面を持っているように思う。浮気を知らずにパートナーに惚れ続けている愛ゆえの盲目さのバカさ加減と、浮気を知れば浮気相手と決闘も辞さない苛烈さと、浮気を知った上でパートナーとの生活を続けていく、恋の名残りを帯びた余生の始まりの明るさ(暗さ)だ。「サレ妻復讐モノ」には、陰影がない。涙を流すべき、嗚咽の混じった勧善懲悪の復讐劇が続く。

もちろん、「サレ妻復讐モノ」はフィクションであり、私が「サレ妻」について述べてきたのも、フィクションについてだ。リアルの不倫には、過程において結果において、あらゆる悲劇の種が埋まっている。不倫、それに続く復讐は、ファンタジーではない。浮気の証拠を固めて離婚に近づく、という行為はリアルである。フィクションの復讐をなぞり、離婚するなり社会的に抹殺するなり、望むように振る舞うしかない。そして復讐の先に、旧・サレ妻の生活は続いていく。

「金妻」や『失楽園』に憧れて不倫する、という事はあったのだろう。『若きウェルテルの悩み』を読んで自分の悲恋に重ねて自殺するより、現代の日本で不倫する方が簡単だ。おそらく「金妻」『失楽園』に、「正しさ」は無かった。それらの作品の受け手は、表に出せぬ恋愛か快楽に焦がれつつ、正当であるとは考えなかった。もちろん全てのサレ妻が、復讐するわけではない。しかし復讐という「正義」への逡巡は、「不倫」への逡巡よりも、はるかに心地良く私たちを引き寄せる。

「不倫」作品は、時代のサイクルを経て流行る。そうした作品は時代の鏡ではなくても、時代の仕掛け罠として人々の傷跡を残す。よろめき、不倫し、天井の世界に焼かれるのはよい。どれだけの悲劇だろうとそこには「コキュ」が顔をのぞかせる。「コキュ」が舞台を去り、エンフォーサーだけがそこに残るとするなら、私はその時代をどのように形容すればよいのだろう。「不倫を当然とした潔白さ」というなら、それはそれで見てみたく、それはそれで生きていくしかないのかもしれない。

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