AIによる画像生成は創作なのか?

最近、AIでの画像生成にハマっている。絵をまともに練習したことのない私でも、絵に関係するキーワードをいくつか入力するだけで、それっぽい画像ができるのが、なんとなしの達成感があって楽しい。

noteでもAI画像生成などの記事を見ることが増えたが、その中で「AI画像生成は創作だ」という趣旨の投稿を見かける。
こういう絵を描いてという命令(プロンプト)をAIに渡す→AIが画像を作り表示する→その画像を元に、プロンプトを調整して画像を生成する、というループを改善していくという過程が創作の過程であり、生成された画像が創作物である、という内容だった。

新しい技術が発明された時に、それまでの創作行為が揺さぶられるのは面白い。100年ぐらい前に、蓄音機や映画やラジオが発明された。それまでの伝統的な創作行為、キャンバスに筆で絵を描いたり、聴衆の前でバイオリンを弾いて聞かせる、といった行為は、それらの発明にグラグラした。

そうした時代にベンヤミンという人がいて、新しい発明による創作(複製技術時代の芸術)によって、作品のオーラが失われるよね、みたいなことを言った。現代で言えば、推しのライブはやっぱ現地で見ないとね、ということだ。

だから、「AI画像生成は創作か」ということは、ある時代において「創作」とは何か、ということが固まらないと、ふわふわしていて、話題に乗せることすら難しいのだが、くるりくるりとその周りを回るお話は面白い。「創作とは魂の発露である」なんて思ってしまう、旧世代のおじさんにとっては特に。

AI画像生成は創作かどうか、を考えるために、絵を描くという行為を例にして、「創作」をバラして考えてみる。絵を描かない私が考える絵を描くという行為は、
①描きたい絵のイメージを持つ。
②そのイメージを元に、紙の上に制作していく。
という2つの段階に分けられる。①はアイデアの着想、②は実際の制作過程だ。①から考えてみる。

AI画像生成にも、AIに下書きを渡してそれをブラッシュアップしてもらう方法があるが、いくつかキーワードを渡してそれを元に画像生成をしてもらう、おそらくより一般的な方法を想定する。

一般的な絵画制作との大きな違いは、AI画像生成では、私に完成系のイメージが無くても、何かが出来上がることだ。
もちろん、AI画像生成を絵画制作的に進めることはできるし、絵画制作をAI画像生成的に進めることはできる。最終的なイメージを元にキーワードを選び、AIとの対話を何度も繰り返して、イメージに近づけていく、というスタイルを取るのが前者だ。後者は、キャンバスにある程度のランダム性を元に絵の具を重ねていく、という方法を想定できる。「りんご」を描きたいので、赤い絵の具を何となく重ねるうちに、りんごっぽい何かに見えてくる。

ここで注意したいのが、この分類は人から見たもので、AIがどのように画像生成をしているかという技術とはひとまず関係ない、ということだ。最終的にはその技術が創作であるかどうかを決めるかもしれないが、そんな技術的なこと言われてもよう分からんし。文系やし。

ある日の私を考える。私は「かわいい女の子の絵が描きたい」と考える。その時点で私はその「かわいい女の子」を脳内にも描いていない。新海誠のアニメを見たばかりで前世から繋がってそうな女の子だったりもするだろうし、KPOPのアイドルにハマっていて、人工的な整形アジア美少女だったりもするだろう。アニメか実写に近いか、そのぐらいは決まっているかもしれないし、決まっていなくてもいい。

AI画像生成のツールを立ち上げ、「ガール」「キュート」ぐらいをキーワードにして、画像を生成してみる。何か、かわいい女の子の画像が出てくる。やったね。もう少しアイドルっぽい方がいいね。「アイドル」を追加してみる。安いコスプレにも見えるが、コスプレし続けるのが人生なので、これはこれで良い。何となく満足する。今日も美少女を描いたなぁ、と。

多分、これが現代の「創作する人」からAI画像生成が叩かれる理由でもあるのだと思う。
まず実際の制作過程で何の技術も使ってないやん、という理由がある。同じひまわりを見て、ある人は本物そっくりに描けるだろうし、別の人は踊りながら腐り続ける豆の木みたいな何かを描くかもしれない。その人は「絵が下手だなぁ」と言われても、「絵を描いていない」(=創作していない)とは言われないだろう。

しかしこれはある意味、分かりやすい問答だ。タブレットを使って絵を描く人と、油絵を描く人の間にも「そんなの絵を描くことじゃない」というやり取りはありそうだが、ツールが何か、そのツールを使うのにどれくらいの技術・習熟が必要かは、問題であるが、AI画像生成を考えるには、より分かりやすい問題だ。

よりAI画像生成が創作ではないと思われそうな理由が、画像が生成され表示されるまで、私はそれを知らない、ということだ。これは、キャンバスを前にして最終的な絵のイメージを持っていずに絵を描き始める、最終地点を知らないままに描き続ける、ということとも違う。先に例に出した、絵の具をある程度ランダムに垂らすという、制作技術のランダム化、とも異なっている。

私は「かわいい」「女の子」「アイドル」しか知らない。そのイメージは漠然とはあるが、AI画像生成の過程においては、私はそのイメージを用いて画像を生成しているのでもない。自分のイメージに沿った単語をAIに渡して、画像を作ってもらい、その画像を元に、AIに与える単語を調整していく。

急に話題が転換するようでしない例だが、私が画像ではなく動画を作りたければ、「かわいい」「女の子」「アイドル」をAI動画生成ツールに与えれば良い。現在のAI動画生成にははもっと素材が必要です、という事は重要ではない。私はAI小説生成ツールに「かわいい」「女の子」「アイドル」と打ち込んでも良い。画像が生成され動画が生成され小説が生成される。かわいい女性アイドルの画像と動画と小説を、作るためのイメージはそれぞれ異なる。しかし私は、3つのキーワードだけで、何かを作れる。

これは、各ツールで制作するための技術の問題ではない。私は画家にも映画監督にも小説家にもなれるだろうが、AIを前に私は、それらのどれでもなく、宮廷画家に自分の肖像画を依頼する王様のような、依頼者だという感覚に襲われる。依頼者でしかない、という感覚ではないにしろ。

王様は創作しているか、と言われて、創作しています、とはならない。ある絵を誰に頼まれて描き、書き直しを命じられるにしろ、絵を作ったのはやっぱり、ミケランジェロなりの画家であるので、AI画像生成は創作ではない。

と言ってもいいのだが、そう簡単でもない。王様は自分は創作しているとは思ってなかっただろうし、創作者でありたいとも思っていなかっただろう。私も当時生きていたなら、画家より王様でありたかっただろう。肩書きが「暗君」や「失地王」であるような王様に。

しかし、AI画像生成をしている人の中には、自分は創作をしているし、創作者であるという自負を持っている人もいる。私とAI画像生成のプロのどちらがAIに美しい画像を生成させることができるかといえば、やはりプロなのだ。そこには、技術がある。絵を描く技術ではないが、AIに絵を描かせる言葉を選ぶ技術が。

技術がそこにある以上、私はAI画像生成のプロに、歴史的な芸術家に対して私が持つ尊敬と似た何かを、持つべきなのだろう。

プログラミングをするプログラマという職種がある。画面に「こんにちは、世界さん」と表示するプログラムを作るのに、優れたプログラマと初心者の違いはそれほどないだろうが、大掛かりなシステムになれば、天と地、アップルと屋台のりんご飴ぐらいの違いがある。プログラミングをしてゲームなりソフトなりを作る人を、創作者と呼ぶのは自然な呼称だろう。

「プログラミングには、AI画像生成のようなランダム性はない」と言われるとそうかもしれないが、プログラミングにおいて、自分が詳細は知らないが定番として用いられるプログラムを利用するのは、当然のことだ。つまり、パソコンをツールとして使ったら創作ではない、ということはない。デジタルでのお絵描き、DTMと呼ばれるパソコンでの音楽制作は、現代では自然過ぎる行いだ。ではAI画像生成は創作なんだ!

と言っていいのか、もう少し考えたい。AI画像生成において、どうしてキーワードを与えるだけで画像が生成されるか、というと、AIがキーワードを元に画像を作ってくれるからだ。技術の詳細は私には理解不可能だが、キーワードを元に画像を作る訓練を、既存の画像とキーワードを元に行った結果、できるようになりました、と捉えている。そうした訓練を、「学習」と呼ぶ。

学習教材として、これまで存在してきた数多くの有名無名のアーティストの創作物を使っているやん、それはパクリちゃうん、というのが、いまいちAI画像生成を創作と呼び切れない理由だろう。パクリと言わずとも、剽窃のモザイク画がAI画像やん、そんなん創作物ちゃいますやん、という立場も想像はできる。

王様が画家に依頼する例で言えば、その画家は古今東西の画家の画風を勉強していて、王様が「バレリーナを欲望の目で見るおじさんを、ミケランジェロみたいな画風で、ムキムキマッチョマンぽく天地が創造される感じで描いてよ」と言ったら、描いてくれる画家が画像生成AIさんだ。

画家の例だと、いろんな絵を見て勉強してすごいね、という感じなのだが、画像生成AIさんは、10,000人のヒーローと対戦して彼らのスキルをコピーして、さらにスキルを組み合わせたりもできて、その状態で10101人目のヒーローをボコる悪役に近い。そんな万能の悪役がスキルを上手く使えるように指示するのが、画像生成AIの利用者なのだ。

結局、AIで画像を生成するのは創作なのかというと、私たちがとある劇を見て、俳優たちを創作者であると感じると同時に、「『マクベス』っぽくお願いします!」とだけ言ってたまに演技に口出しする監督を創作者だと感じるなら、創作なのだろう。

もしかして盗品を組み合わせたブリコラージュなのかもしれないにしろ、そこに作品と呼べる何かがあって、その寄せ集めに私たちが意志を持って関与したら、創作者であると自称してもいいように思います、というのが少し画像生成AIを触っての感想でした。その寄せ集めは、イラスト系のお仕事をやっている方々への殺人装置であるようにも感じましたが、それはまた別のお話で。


あなたの心のスキマが埋まりましたら、ソーレッ!エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!あなたのいいとこ見てみたいっ♡エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!