シングルマザーの貧困は「自己責任」か?

「自己責任」という言葉が流行り始めたのは、日本人の活動家(のような人たち)が海外で紛争に巻き込まれそうになり、彼らを救うために税金を使うことを、人々が批判した時だったように記憶している。「彼らは紛争の起こりそうな国にわざわざ行った。彼らが実際に紛争に巻き込まれ、命の危険が迫っているのも、彼らの責任である。われわれの血税を愚かな彼らのために使う必要はない。見捨てるべきである」。このような意見だ。

私は彼らの行為を「愚かな」とは思わなかったが、「かっこわるいな」とは感じた。自分の考えで危険な国に行くのはよいことだと思うが、助けてもらうのは情けない。海外の危険地帯に行き取材・活動することにはかっこうの良さを感じるから、余計にダサく感じたわけだ。

しかしその後、「自己責任」という言葉は、そうした「自分で選択肢を持つ人々は、その結果にも責任を持つべき」という意味から離れていったように感じる。例えば、10代で子どもを産んだシングルマザーが経済的に困窮している、それを見て、「子どもを産んだのは自分の選択でしょう。自己責任じゃん」と笑う。冷笑的な嘲り、という位置付けですらなく、「自己責任ですよね」という言葉は、「あなたはバカですね」と置き換え可能な文脈で使われる。

だから私は「自己責任」という言葉は、SNS用語でいえば「バカ発見機」だと考えている。人をけなすのに「自己責任」という使っている人にはかかわるな、ということだ。

「自己責任」という言葉(を使う人たち)へ私が持つ嫌悪は、ロールズの「無知のヴェール」的な状況への想像力の欠如への嫌悪、からスタートしたように思う。「自分が誰に転生しても我慢できるような社会であるべき」という考えは、「自己責任」と他者をバカにするだけのあり方を許さない。

では、自分がどのような立場になろうともその責任を引き受ける(ことができる)、そう考えるなら、他人の「自己責任」を問うことは可能だろうか。

この考えには、シンプルな疑問を呈したい。
それは「どのような立場になろうと」という仮定を、どの程度まで想像しているかという疑問だ。戦時下のドイツで強制収容所にとらわれたユダヤ人は、あらゆる尊厳を奪われ、生きる死体となった。それは不遇というレベルではない。そこから這い出る努力はもちろん、根こそぎにされた体力・気力は、行動・思考の選択肢を徹底的に無くす。
つまり、「自分がどのような立場になろうともその責任を引き受ける(ことができる)」と思うためには、そう思うための、体力・気力の余裕が必要なのだ。

現代社会の「成功者」と呼ばれる人の中には、「全財産を失っても、自分なら(経済的な)成功者に返り咲ける」と自負している人もいるが、彼らがもし全財産を失っても成功できるにしろ、経済行為を行う自由は必要なのだ。鎖でどこかに繋がれれば、それで終わりである。


「そうした極限的な状況を仮定しているのではない。貧乏なシングルマザーには、自分で行動を選ぶ自由があった。愚かな選択肢を選んだ彼女が悪い。その困窮は、自己責任だ。子どもを誰かに預けて働けばよい」
こうした意見は反論として、当然ありうる。彼女には、確かに自分の行動を決める自由があった。昼間の時給の安いアルバイトではなく、水商売や風俗で働き、高給を得る自由。子どもができた時に、産むのではなく堕胎する自由。避妊しない恋人ではなく、結婚までは手も握らない恋人を作る自由。恋愛ではなく学問に打ち込む自由。

「恋人を選ぶ」という例を考えてみる。恋人を選ぶことは、当然だが、自分の望む相手を選べるわけではない。「避妊しない相手を選んだのは、自分だろう」という意見が聞こえる。しかし、「恋愛関係にあるなら、避妊が不確実だろうが、結ばれるのが正しい」という考えもある。そういう考えで学生生活を送り、シングルマザーになることなく有名企業に就職し、結婚してから余裕のある子育てを行う人もいる。

さて、困窮するシングルマザーの「責任」はどこから発生したのか。同じような選択を同じような考えから行い、一方は困窮し、一方は余裕のある生活を過ごす。行為に責任を求めるなら、婚前交渉を行う人々を同じように「自己責任」と問い詰めるべきだが、そうしたことは起こらない。貧困という結果が悪い、ゆえに、行為もさかのぼって悪い、ということになる。それなら、裕福という結果が良いとすれば、行為もさかのぼって良い、ということだろうか。同じような行為が良く、同時に悪い。

一昔前、「婚前交渉は悪」という考えがあった。現代の日本でそうした考えがゼロとは言わないが、「自己責任」という言葉を使う人の中でも、婚前交渉が悪い、と考えている人は少なそうだ。もしそう考えているなら、「自己責任」という、結果に良し悪しが左右される前提の言葉を使わずに、「婚前交渉は悪」と言えばよい。

しかし、ある行為をその行為の道徳的な価値に基づいて「良い・悪い」ということに抵抗を感じる程には、「自己責任」を語る人たちは思慮深い。価値観の押し付けは、多文化主義なり、インクルーシブなり、LGBTなりが流行する現代では、やり辛い。それならと、一般的に賛同が得られそうな悪いこと、例えば「貧困」という結果を元に、「婚前交渉」という一般的な行為ではなく、「あなたの婚前交渉が貧困に繋がった」という限定された、結果が既に確定した一連の過程を、「自己責任」と責める。

現に起きている不幸の原因を過去に求め、(人格攻撃を目的に)過去の行為を責める。この手法の強さは、目の前の不幸、という否定しがたい現実があることと、「自己責任」の対象となる行為は、気に食わない行為であれば、かなり融通が利くことだ。
「あなたが今不幸なのは、あなたの前世の行いが悪かったからだ。自己責任だ」。こういうと馬鹿げて聞こえるが、構造は同じである。

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