挨拶しない自由から考える「炎上対策」
「挨拶しない自由」を唱えて炎上した男性
2022年10/14のAbemaTVのアベプラという番組で挨拶強要はアリ? ナシ?をテーマにした討論があった。その番組の中で顔出しでインタビューに答えた男性が「挨拶をしない自由もある」と言って大炎上した。私が調べた記事に書かれていた彼が述べたことは主に2つである。
・挨拶するかしないかの基準が人によってバラバラであり、職場ですれ違うだけの人や、ドアを開ける際などの、形式だけの気持ちのこもっていないような挨拶は意味がないので、する必要がない
・時代は移り変わるものだから、これからの時代を築いていく若い人たちが挨拶を不要と思うなら、そっちが正しいのではないか
実はこれが炎上したのは2024年の話である。とある男性がX(旧Twitter)でポストしたのがきっかけである。批判内容は次の通りだ。
・挨拶すらできない人はチームプレイができないと判断せざるを得ない
・挨拶が出来ない人はお礼や謝罪も言えず、仕事ができない
・朝の挨拶はローコストで信頼関係が築ける、リターンの多い行為である
その記事ではさらに「挨拶不要論を唱える人が一定数いる」ことについても述べている。どういう挨拶が不要かというと、以下の通りだ。
・形式だけの気持ちのこもっていないもの
・やたらと大声を強制されるもの
今回は改めてこの問題を分析して、今後起こるだろう「不要な炎上騒動」を避けるにはどうすればいいか考えていきたい。
燃えた男性の釈明
彼は「挨拶必要論者」
まず見ていかなければいけないのは「炎上発言の真相」である。
私は炎上騒動の中には「本心からの発言ではない部分の切り取り」が原因で起きたものも数多くあると考えている。今回の騒動の渦中にいる本人はどういう意図で発言したのか、記事を参考に見ていこう。
記事によると、彼は「挨拶は必要だが強要すべきかと言われると怪しい」というスタンスである。つまり、彼は「挨拶が大切でやっている」タイプの人である。彼が挨拶を必要だと考える理由は主に2つあるらしい。
・相互監視監視システムの維持
・コミュニケーションの円滑化
言葉が何やら難しい。順番に見ていこう。
理由① 相互監視システムの維持
サイトの引用によると、このような書かれ方をしている。ここでの要点は「挨拶という行為が社会の健康維持機能につながる」ということだ。
「田舎社会だからではないか」と言いたくなるかもしれないが、そうとも言い切れない。会社でも、挨拶を普段からしていると、声の調子などからいつもと体調が違う時に気づいてもらいやすい。これは自分の健康を気遣ってくれるという側面と同時に、他の人にその瞬間を見せることで「自分も同様に気遣ってもらえる」という安心感をその社会に与えることにつながると言える。
それが結果として社会の秩序を保つことにつながるのだ。
理由② コミュニケーションの円滑化
挨拶の最大のメリットは「話しかける理由がいらない」といえるだろう。
普通、会話は何かしらの意味を持っている。「天気いいですね」と話しかけられると、天気に対して自分の感想述べたり、今の空の状況を確認することを迫られる。言い換えれば、何か考えるという意志力を使わされることが疲れるのだ。
だが挨拶は返答が一つに限られているがゆえ、自分の意志力を強制される状況に追い込まれたりしない。
自分の考えなく、相手とつながることが可能なのが挨拶という行為であり、これの積み重ねによって普段の会話と同等の信頼関係を徐々に構築することが出来る。
批判の声の正しさについて
ここでネットで見受けられた非難の声に目を向けてみたい。彼らの視点が素晴らしく、先見の明があれば、直感的な批判にもある程度の妥当性が見られると思う。
挨拶ができない人はチームプレイができない
仕事は基本、人との連携で成り立っている。特に会社員の仕事はそうである。自分の携わっている仕事が会社の売り上げに直結すると思えても、誰かの根回しによって場がうまく回った結果、その仕事が成功した可能性がある。
こう考えた時、挨拶はチームプレイにどの程度影響するのか。これはほかの部署の人との連携が必要な時、顔見知か否かによって会社の売り上げに変化はあるのか、と言い換えることができるかもしれない。
人は感情の生き物なので、知らない人に仕事を頼んだり頼まれたりするよりは顔見知りの方がいいというのは気持ち的にはわかる。だが、会社は連携で利益を生み出す組織であり、その連携に好き嫌いが関与しては業績は安定しないだろう。
つまり、挨拶できない人が仕事ができないというよりも、その人の周りの人が挨拶してこない人と仕事したくないという方が近いのではなかろうか。
チームプレイは仕事を割り振る人の感情に委ねられており、その人が割り振りたいかどうかの感情の問題である。挨拶しないことと仕事の出来は関係がなく、批判者の「思い込み」であろう。
挨拶が言えない人はお礼や感謝も言えない
先ほどの意見と同様に、仕事を前提に話す。繰り返しになるが、仕事では連携が求められる。その際に、相手がしてくれたことに対してお礼や感謝をするのはごく自然なことである。
ここの争点は「彼ら(挨拶不要論者)にとって感謝は挨拶と同様に不要なのか」ということだ。そこで彼らの意見の代表として「炎上した彼」の意見を参考に不要かどうか考えていきたい。
彼が不要と考えていたのは「形式的で気持ちがこもっていない挨拶」である。
では感謝やお礼はどうだろうか。仕事にもよるが、業務上で行われる感謝の多くは「感謝される側にとってはやって当然の仕事」である。言い換えれば、本来ならば感謝が見返りとしてやってこない行為である。
例えば、ピッキングの仕事であれば、ものを探して持ってくるのは当然である。その仕事をしてる人に仕事中、持ってきてくれたことに対して感謝したとする。ここで使われる「ありがとう」は本来の心からの感謝よりも形式的なものだろう。強いて言えば、同じ業務をしている方同士であれば「代わりに持ってきてくれて」、ほかの業務の方であれば「準備してくれて」といった口から出ない枕詞がついている。
これらは本心なのかもしれないが、心からの感謝かと言われると怪しい。したがって、気持ちのこもっていないものであるとも言えるので、彼らの基準で考えると不要なのかもしれない。「感謝が言えない」という観点で言えば、確かに正しいかもしれない。
だが、この批判の結論は「感謝しない」ではなく、「仕事ができない」である。こうなって来ると、言い過ぎである。なぜなら、彼らが感謝するかどうかは「気持ちを込めるかどうか」で決定されており、形式的な感謝では「やって当然だから言わない」だけだ。
それに本当に助かった場合は言うかもしれない。普段言わないから常に言わないのではないかという意見は、気持ちはわかるが、言い過ぎな気がする。
挨拶はローコストで信頼関係が築ける行為
最後に取り上げるのは「炎上した彼」も挙げていた、挨拶による信頼関係の構築である。挨拶はコミュニケーションを円滑にするためのツールである。
だが一回すればできるのか。そんなわけないだろう。挨拶は何回もすることが前提である。だからこそ「話しかけられた回数を増やす」によって相手の中に自分を刷り込んでいくことができる。
ということはこの批判は「どこに対してローコストと言ってるのか」があっていないと成立しない。
「信頼関係が築ける」という部分に対して言ってるならば、「築き上げるのが難しい信頼関係が挨拶を毎日するだけで素性のわからない相手にも信頼してもらえるようになるならコスパがいい」という意味になる。
逆に、信頼関係が最低限でもいい人からすれば、形式的な信頼関係のためにわざわざ話しかけにいくのはハイコストともいえる。それならば、自分のやるべきことに注力した方がコスパがいいだろう。
炎上は正しかったのか
この記事を通して、「炎上騒動」について散々考えてみたが、結果として、炎上は「ある意見に対して、自分の視点の思い込みを強い批判者が多いと、発生する」ということが分かった。
だが、炎上は本人の考えとは違うところから発生してしまう。例で取り上げた彼は番組側の都合で「挨拶に関する新しい考え方を提示する第一人者」のように見えてしまった。その結果、尖った発言が生まれた背景を見られることなく、その発言の表層だけを切り取られて、根も葉もない噂や憶測の対象となった。
今回振り返ってみて分かったように、彼は「非常に客観的な意見を述べただけ」であり、「叩いてきた人たちと同じ視点を持っている」善良な市民だった。
ただこういった批判は、よくあることだ。
そこでここで最後に「不要な炎上はどうすれば防げるか」を少し考えていきたい。
対策 ヒューリスティックスに抗う
ヒューリスティックスとは「経験則や思い込みによる直感的な思考」のことである。
我々は「考えて行動する」と言われると「しっかり頭を使って結論を導き出し、行動に移す」といった印象を持ちがちだ。
しかし、私たちの生活上で起こる「考えて行動する」の考えは基本ヒューリスティックスによるものである。そうでないと、生活のテンポが遅くなりすぎてしまうからだ。
「あれやった?」
こういった「内容がわからない疑問文」は日常でよく見聞きするだろう。これで会話できるのは、当事者間でのヒューリスティックスがある程度一致しているからである。同じ高校の友人であれば、「あれ」は「宿題」を指すかもしれないし、夫婦間であれば「家事」のことかもしれない。質問の全てに主語や目的語を入れてると、日本語の場合、話すことそのものが面倒になる。
このようにヒューリスティックスは非常に便利で生活の速度を速めることが可能な思考法なのだ。しかしそれ故に弊害もある。
その例が「炎上」だ。ネットニュースなどでは、ほとんど全ての情報を書いてあっても、その内容を逐一確認する人は少ない。そのため「一言でわかるキャッチーなパワーワード」をタイトルに据え置くことが多い。そうすれば、記事を詳しく見なくても概要が推測できたり、興味がそそられて記事を読んでくれる可能性が高い。
しかし、これが炎上を招くことになる。
「挨拶不要論を唱える若者が増加」
こんなネットニュースのタイトルを見たら、私たちはヒューリスティックスによって「最近の若い人は挨拶しない」という思考が一瞬で過ぎるだろう。事実、そういう人はいるのかもしれない。しかし、このタイトルだけで「挨拶不要論を唱える=挨拶をしない」という仮想の因果関係を生み出すことになる。
実際、炎上した彼は「挨拶は必要」と考えているし、多くの不要論者も「それとこれとは話が別」と考えていることだろう。
批判者が相手の発言の背景に気を配る前に批判してしまうのはヒューリスティクスによるものだ。だが、意見には大抵、理由があるものだ。どういう思考からその発言に至ったかを理解しようとせずに、自分の作り上げた思い込みだけで相手の意見を叩くのは、あまり建設的な発言ではない。
そしていつ自分が社会的な批判の目に晒されるかわからないのが世の中である。どれだけ気をつけても、その気を付けすぎる姿勢を「八方美人」と言われたりするかもしれない。社会で生きる私たちは、常に誰かからの批判の目を向けられている。叩いた人もいつか叩かれる可能性がある。批判の目が厳しくなればなるほど、自分が叩かれる可能性も上がってしまうのだ。
だからこそ、その正体の一つである「自分のヒューリスティクスに気付き、冷静になる」ことは不要な炎上を避けるのに一役買うだろう。
まとめ なぜ炎上しないようにしたいか
ここまで読んでくれてありがとう。最後にこの記事で言いたいことは、「不要な炎上を減らすことが生きやすい人を増やす」ということだ。
まず炎上には二つあると思う。必要か不要かだ。
必要な炎上とは「社会のためになる批判」のことだ。例えば、増税反対運動や差別に対する声である。こういったものは、一部の国民の生活がままならないものへの改善行為であり、結果的に社会全体が良くなる。
一方で、不要な炎上とは「国民が生きにくくなる批判」のことだ。今回のような「挨拶するかしないかの自由」ははっきり言えば、本人の自由である。したいならすればいいし、したくないならしなきゃいい。他人がとやかく言うのようなことではない。
(元も子もない話だが、、、)
だが、問題は提起する内容ではなく、提起の質だ。不必要に炎上を繰り返すと、社会が繊細なものになりすぎると考えている。繊細な社会では、人は自由を謳歌できない。例えるなら、空気清浄機がガンガンに効いた部屋で育てた赤ん坊が外に出た途端に病弱になるようなものだ。
世の中とは雑多にできている。元々無秩序だった世界に対して、強者が勝手にルールを作っていったのが現代だ。そのルールを批判し、革命を起こして変化させてきたのが人間の歴史だ。
そのおかげか、今はルールを作るハードルが緩くなっている。そのおかげで救われることもあるが、そのせいで生きにくくなる人も増えやすい。曖昧なままでもうまく回っていたものに名前を与えたことで、かえって生きにくくなることもある。最近のハラスメントの増加速度は異常だろう。
だからこそマジョリティの寄り添いが必要不可決である。その方法がヒューリスティクスに気付き、微調整を繰り返すことなのではないだろうか。「思い込み」の質を高めることで、マイノリティはもちろん、マジョリティも生きやすくなると、私は信じている。
参考文献
https://news.yahoo.co.jp/articles/87df69cf478da101ed1f6af450b1092fad87f5b4