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天然な人は会話を理解しているか

あなたは「聞き取り困難症」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

聞き取り困難症とは「話は聞こえるが、話の内容を聞き取るのが難しい症状」のことをいう。現在、小学校などで問題となっており、そのような疑いがある人が増加している。また、年齢が上がるにつれて浮き彫りになるケースがあるようだ。

彼らは聴力に一切の問題がないので、素人目線で判断が極めて難しかったり、これを診断できる病院が日本全国でたった20箇所しかないなど、症状そのものの認知が遅れている。

このような症状がある人は見かけではわからない。実際にあったケースの中には、ある小学生が友達の話を聞き取れず、トンチンカンな回答をして「天然だな」と言われたらしい。

私はたまたまこれをYouTubeで知った。聞き取れないからといってそうであるとは限らないようだが、その可能性があるという視点を持っておくに越したことはない。

こうしたことから、私は次のことを思った。

もしや、私の身の回りにいたのではないか

今思えば、自分の身の回りにも会話の回答がトンチンカンな人は沢山いた。自分のIQと20ポイント差があると、人は会話が成立しないと言われている。

私が「変な人」と決めつけていた人は、
あえてその回答をしていたのか、
聞き取れず勘で回答していたのか、
意味を理解出来ず、自分なりに解釈していたのか。

私の経験則ではあるが、人はこれらを適切に見極める本能を持ち合わせていないだろう。だからこそ、知識は必要だと言える。人間は自分にとってトンチンカンな回答をする人を「変な人」と括って関わることをやめるという方法でこれまでの人間関係の問題を潜り抜けてきたかもしれない。

いずれにせよ、人は大部分を視力に頼って生きている以上、見た目だけで判断できないこうした衝突や問題が多発する。そして、それを自分の都合がいいように解釈する癖がある。こうした他者への理解の怠慢が人間同士の対立を生み出しているのだろう。

話は変わるが、私は大学時代最後の卒業論文のテーマが「見えない障害」だった。テーマのインスピレーションは『聲の形』というアニメ映画がきっかけだった。友人と集合するまでの暇つぶしに見たのだが、見終えた時に感じた衝撃は今でも覚えている。

このアニメ映画のストーリーを簡単にまとめると、主人公が聴覚障害の女の子を小学校時代にいじめ、その結果、彼が社会的にハブられた。そして高校の時に偶然その女の子と再開し、過去の後悔から学び始めた手話を通して主人公が改心していくというものだ。

衝撃が走ったポイントは2つだ。

1つ目は、いじめられた側の世界が美しく描かれている点である。いじめた主人公が悪いのは言うまでもないが、主人公は女の子の障害の程度を一切理解していない。行動はやりすぎているのだが、聴覚障害側からすれば、その行動自体が自分に関わってくれて嬉しいという感情が綺麗に描かれている。私は「障害だから」と考えて腫れ物を触るような接し方ではなく、一個人として接することの大切さと難しさを知った。

2つ目は、人間社会の惨さを生々しく描いているところだ。ストーリー内の小学生は「いじめた奴が悪い」と「自分はいじめたわけではない」の2つの立場を使い分けて、自分を必死に守っている。このシーンを見て私はイジメは誰かが始める行為ではなく、作り上げられた状態であると気付かされた。つまり、誰かをいじめたからイジメになるのではなく、周りが「誰が誰をいじめたか」を認識し始めた時にイジメになるのだと思った。

私はこの人間社会の怖さと見えない障害の関係をうまいことまとめようとした。(ゼミ発表の時に、全く理解されなかったのはいい思い出である)

聞き取り困難症は、まさにこの見えない障害の一歩手前にあるのではないだろうか。

聴覚障害なら補聴器があるだけまだ障害と認められ生きやすいかもしれない。だが、彼らは話が聞こえてしまう分、余計に理解されない世界線を生きている。
人は見えない障害は障害だと気づかないのである。そして、自分の友達、親、子、パートナーがまさにこの症状を抱えているかもしれないという視点を誰も持ったりしない。

話のややこしさで言えば、「大人のADHD」に近いものがあるだろう。私たちが生きている世の中は、悲しいことに、ADHDと仮に診断されても「仕事ができないのを自分の特性のせいにするんじゃない」と言われることがある社会である。

障害が知識として頭に入っていても、自分の目の前の人が当事者とは考えたりしないし、現在の日本社会はそれを受け止める余力がないのかもしれない。

それでも知っておくことが何よりも重要だと私は考えている。

「自分のことは自分で守れる」
こんなのはウソである。
実際、人間が共同体からハブられるストレスを自分1人で守り切るのには限界がある。

周りが無知ならば、あなたが抱えている個性はわがままとして受け取られるのだ。

近年の人間の多様化が一般的に受け止められにくいのは、知識不足と働きすぎが原因だと私は思っている。
この記事を読んで、他人の「見えない部分」を見ようとする人が1人でも多く増えることを願っている。

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