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#171 映画 『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』 と、人生でほんとうに大切なこと

 きょうは、わたしの誕生日だった。1980年3月8日生まれ。44歳になった。(もう、アラフォーとは言えなくなったかな…)母から、母子手帳の写真とともに、「誕生日おめでとう」と書かれたショートメッセージが届いた。

 なんだかすごく、特別な日のような気がしてきた。誕生日を祝われるなんて、いつ以来だろうか?最後に交際した人と別れてから、かれこれ…7、8年くらい前?とにかくもう、記憶が曖昧になるほど遠い昔だ。

 自分自身でお祝いをする習慣はないし、特に誰にも言わなかったから、3月8日は普通の日だ。気づいたら「あ、そういえば今日は誕生日か…」ということも、しばしばあった。3月は仕事も忙しいし、むしろ考えないようにしていたのかもしれない。うんざりするからだ。歳を重ねる毎に乖離していく、自身の内面の幼稚さと、外見の老いとのギャップに。

 映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、金銭問題と家族の問題を抱える一家の中心である母、エヴリン(ミシェル・ヨー)が突然、別の宇宙から現れた夫、ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)から全宇宙の命運を託されてしまう…という、あらすじはいいだろう。

 本作は切り取り方により、様々な見方ができる。マルチバースSF、カンフー映画、コメディ、家族、ジェンダー、移民。そのため、受け手である観客は、そのいずれかのメッセージに共感したり、あるいは情報量が多すぎて、何も響かなかったりする。

 しかし、本作は贅沢なのだ。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(なんでも・どこにでも・いっぺんに)」と言っている。あらゆる要素を楽しむことが本作の味わい方だし、それがそのまま、観客に向けたメッセージだ。

 わたしのことが書かれた母子手帳、それはまるで、別次元の宇宙から来た「あなたは存在しています」というメッセージのようだった。母は、わたしにはできないことができるし、わたしも同じく、母にはできないことができる。それは父も、兄もそうだろう。同じ血を引く家族でも、一人ひとりに得意なことがある。そうした才能が集まって、「丸く収まる」というのが家族なのだろう。

 わたしは未婚(バツイチ子なし)であることから、自分の家族を持てていないと感じていたが、単純なことを忘れていた。わたしは、あなた達の家族だった。思い出させてくれて、ありがとう。

 映画では、多元宇宙(マルチバース)に無数に存在する、別の自分の能力を引き出して、襲いかかる敵と戦うことになる。しかし、それを引き出すためには、とんでもなくバカなことをしなければならない。やがて戦いの中で、諸問題の根源が、愛娘の抱える虚無であることを知る。

 わたしはこれでも、本気で死ぬつもりだった。しかしどうやら、その馬鹿げた自殺未遂が、マルチバースの扉を開いたらしい。今は鬱と身辺整理に苦しんでいるが、虚無感は全くない。「死んでいた方がマシだった!」と吐き捨てたくなる現実にも直面するが、本気で死にたいとは思わない。不思議なものだ。

 まるで、映画で描かれたベーグルの穴(虚無)が埋まったかのようだ。家族の形に「丸く収まった」感覚を体験しているのだろうか。この心境の変化は、世界線が移動したとしか、思えないほどだ。

 わたしの家族へ。身の回りのことを片付けて、体調も良くなってきたら、必ず会いにいきます。それまで病気や怪我をしてはだめ。

 そのときには、なんでも・どこにでも・いっぺんに、これまで会えなかった時間を埋めましょう。その日を楽しみに、希望に、夢にして、わたしは馬鹿げた現実に抗い続けます。

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