村上春樹と完成する記憶の問題

村上春樹の新作「街とその不確かな壁」が出て、いろんな評判が出てきた。
古臭い男性像への当て擦りや、相変わらず自閉的で女を利用していること、若さに執着して老いが描けていない、なんて声もあった。どれも、なぜそれがいけないのか、ピンと来なかった。

確かに、新作において登場した新しい語り手「私」は、これまでの「僕」より最年長となっても、いまだに勃起への強迫観念は保ちつづけている。「勃起したぼくの性器」は、村上春樹にとって最重要のモチーフの一つであると言われても仕方ないし、それ自体が、人によってはくだらない作家である根拠にはなるかもしれない。いまだに勃起にこだわっている男の思い出話なんて。

しかし、村上春樹の「僕」はある意味でずっと「老いた」存在である。
老いるためには、何かの過去を切断し、それを壁に閉じ込めたようにして思い出せばいい。

村上春樹の「僕」はずっと思い出してきた。
死んだ恋人のことを思い出す。
好きな女の子に、私を覚えていてほしい、と言われたことを思い出す。
そして覚えていると約束したことを思い出す。ひっきりなしに思い出す。
それも、思い出が思い出であることを示しながら思い出す。
古い音楽や草原の匂いを思い出す。
思い出は「街と不確かな壁」となって、いつまでも残りつづけていく

帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終わっちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終わっていなかったからだ。

1973年のピンボール

「私の心の中からはあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね。」
「忘れないよ。」

世界の終わりとハードボイルドワンダーランド

「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。
「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」

ノルウェイの森

ナルシスト、都会の孤独、国際的、おしゃれ、おしゃれぶった田舎者、意味深ぶっている、無責任、自閉的、村上春樹につけられがちな形容詞、それらはすべて「思い出す」という行為に束ねられているように思う。

ずっと昔、柄谷行人は、


「村上の「僕」は、この意味ではカントの『純粋理性批判』を”正確に”読んでいるといってもいい。「僕」は、一切の判断を趣味、したがって「独断と偏見」にすぎないとみなす、ある超越的な主観なのである。それは経験的な主観(自己)ではない」
「この自己意識はけっして傷つかないし敗北しない。それは経験的な自己や対象を軽蔑しているからである。むろん、こうした「内面」の勝利は「闘争」の回避でしかない。」

終焉をめぐって 村上春樹の風景

と、村上春樹にある種の革新性は認めながら、この「傷つかない僕」を批判している。ある小説の語り手が「純粋理性批判」を正確に読んでいるかどうかを判別できるのはすごい話だが、それはともかく、記憶を思い出すという行為が、恣意的な、意思による操作に過ぎないとすれば、柄谷の主張は通るだろう。

しかし、記憶と意思の関係は難しい。

PTSDやトラウマと呼ばれる、覚えたくないのに忘れらないものから、
印象的な言葉やシーンのように覚えたいのに忘れてしまいそうなもの、
勉強のようにすぐ忘れてしまいそうなのに覚えることで乗り切るもの、
覚える気なんてなかったし忘れていたのにふと思い出してしまうもの、
受動的な被害から、意思による強制的な暗記まで、ぐしゃぐしゃの釣り糸を深い海に投げたり、反対に野生の猪のように、思い出の罠にかかったり銃で撃たれたりして日々生きていくしかないわけだが、過去をそっくり思い出すことはできないし、覚えていようと思うことと思い出すことはいつも食い違う。いつも


覚えておこうとする意思と、思い出される記憶にはいつもギャップがあると仮定して、だから、初期村上春樹作品では「僕」はこう語る。

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。

風の歌を聴け

それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりにも多くのことを忘れてしまった。
文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。

ノルウェイの森

ノルウェイの森の「僕」は直子の死という生々しい現実が、忘却によって記憶が不完全なものになったからこそ、それを書くことができた。語るための距離。よく用いられるトラウマの理論にも、柄谷の指摘にも合致していると言えると思う。
ある語られた過去が、単なる感傷か、トラウマによる傷か、それを「語られ方」で他者が判断することは非常に難しいが、少なくとも、村上春樹はずっと「それが傷であったように、仄めかす形で、距離をとって書いてきた。

その距離を、安全な場所にいて、傷つかないナルシストと呼んでも間違いないし、ある種の「おしゃれさ」も感じられなくはない。

しかし、「街とその不確かな壁」では、

 いや、きみがぼくを簡単に忘れたりするはずはない。僕がきみを忘れたりすることがないのと同じように。
「忘れないようにするためだよ。すべてを文章にして正確に記憶しておくんだ」

街とその不確かな壁

というように、生々しい現実をそのまま記憶することが目指されている。忘れてから書く、という段階の手前にいる。
「街とその不確かな壁」では、「記憶と意思」=書くことの立場が変化している。そして、イエローサブマリンのTシャツを来た、「すべてを記憶する男の子」が私がそうであった可能性として提示される。

ここには、もう「過去」と「思い出すこと」の「距離」はない。
中年となった「わたし」は、若い頃に「ぼくときみ」がつくったそのまま街に戻り、「そのままの本当のきみ」に出会うことができる。

これは村上春樹の退行だろうか。

村上春樹が書き直す前の
「街と、その不確かな壁」は、「街」から影と一緒に抜け出し、現実に戻る結末を迎える。
村上春樹はこの結末が気に入らなかった。
それはおそらく、ひとはそんな簡単に、「過去」から抜け出すことなんてできないと感じたからではないだろうか。

そして「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、影と別れて「街」の、それも街の外れにある「森」に暮らし、そこで「思い出そうとする」。

「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思いだしていく。思い出さなくちゃいけないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな唄をね」

世界の終わりとハードボイルドワンダーランド


この結末は、現実から離れ「壁に囲まれた街」に引き篭もる、という単純なものではない。「古い世界」とは現実の世界のことだから、それらにより近づき、それらと生きていくならば、やはり影と一緒に現実に戻った方が早道のように思える。
反対に、それら現実の世界から離れて暮らすのであれば、街に閉じこもって暮らせばいい。
しかし、ここでの「僕」は、現実に戻ることなく、「思い出さなくちゃいけない」たくさんの現実を思い出そうとしている。生きることと、記憶を閉ざすことの間の、また別の、思い出す自閉という距離を描いている。

街から外れ、森の中で思い出した「現実」は、いずれ、「街」のような形をとるだろう。
記憶への強迫観念において、正しいも間違っているもない。
小説に描かれた男性像に新しいも正しいもないのと同じだ。
何度も形が変わっても、距離があろうとなかろうと、思い出すことで、街は何度もそこにある。その街には急に閉じ込められうるし、また誰かを引き込んでしまうこともある。それでも思い出さずにはいられない。ついに記憶は完成しない。しかしそれでも、思い出さずにはいられない。新作は、その衝動の強さをそのまま証明している。

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