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「道」
今日、1人の柔道家が畳を降りる。
なんとも寂しい気持ちを味わいながら、でも、彼女が歩んできた柔道人生のエンドロールが幸福なものであることを知り、本当に嬉しくも思っている。
この記事は、3年前にその選手の復帰戦をサポートした後、感情を吐き出しておこうと書き綴った文章。
表に出さなくてもいいし、出すべきタイミングが来たら公開しようと思っていたけど、今これを残しておこうと思った。
彼女は、私が活動の使命としている
「怪我で引退する選手がいない社会の実現」
が、ほんとうの意味でどんな社会なのかを私に教えてくれた存在だった。
今回の記事は、僕のnoteにあるどんな記事ともリンクしない、独立した内容になる。では今なぜこれを書いているのかというと、ずっと模索してきた「トレーナとしての道」に、少し方向性を示唆する出来事があったからで、今の思いを熱いうちに、言葉にしておきたい気持ちに駆られたからだ。
柔道の選手がRe-Viveに来てからというもの、柔道という競技がどういうものなのか、知るための努力を自分なりにしてきた。最初は、全然わからなかった。柔術と柔道の違いは?という問いも、腑に落ちるものはなかったし、そもそも、日本で産まれた武術が武道になってきた過程、についての知識も皆無だったのだから、それは致し方ない。
僕は、アメリカンフットボールをやっていた。そこには、アメリカの文化があったように思う。一貫して合理性が追求されたし、意味のないことはやらない。もっと効率的に、合目的的に、そういう思考をしてきた。グラウンドに入るときに一礼はしなかったし、誰もそんなことはうるさく言わなかった。なんなら、グラウンドに入るときに礼をする意味は?くらいの問いを持っていた。そこに精力善用の概念はなかったし、勝つために必要なことはなにか、という問いかけしかなかった。
ただこれは、僕という人間が、その競技を通して「学ばなかった」愚か者であることを表しているのであって、競技の特性ではないと明言しておく。
スポーツトレーナーとして生きてきて、選手を勝たせるために必要なことは何なのか、それこそ懸命に考えてきたつもりだった。でも、僕の追い求めたその「必要なこと」は、手段であり方法でしかなかったと、今改めて思う。
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