ルパン三世vs複製人間マモー Ⅲ マモーとPART4のダヴィンチ
クローンの運命
「永遠の生命」を否定したルパン。永遠の若さを欲しそれを信じた不二子と違って、ルパンがなぜそれをくだらないと思えたのか。
ルパン自身が自分の唯一性、絶対性を何よりも信条として誇りとしていると考えた時、クローンによる永遠の生命など、その全否定でしかない。
その絶対性は、今この時、この時代を生きている、という点でも絶対的であり、永遠の生命は、現在を生きている時間の否定にもなってしまう。
ルパン三世が今この時代に生まれ、この時代を生きているという現在性、同時代性を、「永遠の生命」は奪ってしまう。
皮肉にもルパン三世は、マモーを否定し葬ったにも関わらず、まるでマモーのように映像世界で永遠の生命を生きることになっているけども。
マモーの悲しみ、哀れは、永遠の生命を求めたがために、自分のクローンによって自分の唯一性、絶対性を否定し続け失うことになってしまったからで、コピーの劣化は、単に技術的な問題だけではない。
コピーの繰り返しは、その行為自体がオリジナルの絶対性唯一性を否定するもの。
自己否定の連続は、たとえクローンによって永遠に生き続けていたとしても、繰り返される自傷行為によって最終的に死に至る。
宇宙へ飛び出し神になったとしても、それは人間であった自分の自己否定、完全否定でしかないのだから。
最後不二子を求めることで、ルパンのように自分の存在を肯定しようとしたのは、マモーにも不二子がどうしても必要だったのは、マモーに残された挽回の手段はもうそれしか残っていなかったからだ。
何千年も生き永らえていたとしても、オリジナルは脳みそだけになっても、その間ずっとクローンコピーによる自己否定、自傷行為を繰り返して来たわけで、生きた死体のようなマモーの顔色、その不憫さは、本人が生きていると錯覚していただけで、何千年と永遠に自分を否定し続けることの恐ろしさは耐えようがない。
ルパンによってようやくその狂気にピリオドが打たれ、マモーはその煉獄から解放された。
「マモー、感謝しな。やっと死ねたんだ」
ルパン三世は、マモーの言葉を信じようとしない。何千年も生き永らえたというのは狂言で、髪の毛一本からでもクローンは製造出来るのだから、歴史上の人物でさえも製造出来ないことはない。自分自身のコピーも作り放題。
第一クローンのような最新技術を遥か昔から持っていたというのは信じがたい。宙に浮かんで不二子を連れて行くトリック以外は、すべて仕掛けのある罠だと見破った。
真実は明らかにされてないけども、ルパン自身がマモーの言葉を、永遠の生命を信じないということが重要で。
不老不死などあるはずがない、故にそれを望むことはありえない。限りある生と性へのルパンの絶対的な信頼。それに対して、永遠を望む気持ちは神への崇拝にも通じる。神こそ不死なのだから。
神を信じないという境地が、神の境地であるという逆説。
ルパンの脳を覗きそこにある虚無にマモーが驚き叫んだように。
タイムリーに某有名ミュージシャンが優勢思想をツイートして炎上していたけれども、科学的にはクローンの遺伝子コピーは映画のように全く同じ人間が生まれるものではないらしい。
同じ遺伝子や細胞のコピーでも、同じ両親から生まれた子供が皆違うように、物体をコピーするようには行かないようだ。
「複製人間」の元ネタとなったと言われる映画『ブラジルから来た少年』では、クローンはそれぞれ違う人間になっている。
優勢思想の虚しさは、良い物を掛け合わせれば必ず良い物が生まれると信じている愚かさ。非科学的な根拠のなさ。
人間の性の営みはクローンを作る行為でもあるわけで、たとえそれが快楽だけを求めていたとしても、その根底には生と性への強い信頼と欲求がある。
不二子が騙されたマモーの企みをルパンが鼻にもかけなかったのは、ルパン三世の生きることへの強い信頼、「人間賛歌」であるのかもしれない。
マモーとダヴィンチ
「複製人間」の影響は、近年再開されたテレビシリーズのPART4にもいまだに強く現れている。
現代に甦ったレオナルド・ダヴィンチは、マモーのアイコンでもあり、最終回の夢の世界に迷い込んだルパンとダヴィンチの対決は、「複製人間」のシュルレアリスムのオマージュにも見える。
よくまとまった娯楽作品だけども、「複製人間」の迫力を知っている視聴者にとっては、驚きも感動も薄かった。比較することで「複製人間」の凄さがより明らかになるというもの。
マモーもダヴィンチもその天才故に人知を超えた野望を持った、持ってしまった天才の悲哀という点では、動機は似たようなものだけども、その孤独や苦しみがダヴィンチの場合はほとんど伝わって来なかった。
まるで対戦相手のいるゲームのように、ゲームのラスボスのように登場して消えて行った。
それに対するルパンの方も、やはりゲーム戦のようなバトルに終始するだけで、「複製人間」のようにルパン自身が抱えている、内在している何かとシンクロしたり、オーバーラップするものもないため、観客が強く引き込まれるトリガーに欠けている。
ヒロインが不二子であったり、昔の恩人でもあるクラリスのようなゲストだったらまだトリガーになり得るけれども、ルパンが魅かれたわけでもなく、因縁があるわけでもないゲストヒロインを救うには、もっと別の大きい何かや、モチベーションが必要だったと思われる。
逆に言えば、ヒロインとのライトな関係がいかにもゲーム上のヒロインという感じもする。ヒロインを救う理由にありきたりな因縁を求める発想の方がもう古いのかもしれない?
幻想世界でヒロインを救うために追いかけるシーンも、ロールプレイングゲームのようなデジャブ。プレイしないゲームにどこまで面白さを感じられるか微妙だと思う。
こうして見ると、ゲーム世代のクリエイターによるクリエイションと、それ以前のクリエイターでは、深くて大きな断絶がある。もうどちらが良いとも悪いとも言えない時代になっている。
アニメをゲーム作品に近い娯楽として消費するか、それとも芸術作品に近い作品として鑑賞するか。観客やクリエイターのロジックによって変化する。
どちらもニーズがあり、大きな市場が存在するのだから、どちらを目指すかは趣味嗜好次第になってしまう。特に「ルパン三世」は、アクションや嗜好性の強いコンテンツだから、パチンコやゲームとの相性が良く、そちらに振れてしまうのも仕方ないかもしれない。
けれどいまだにルパン三世が多くのファンを獲得し、「永遠の生命」を得ているのも、先人たちがアニメに吹き込んだ高い芸術性が礎になっていることも忘れないでいたい。
PART4と「カリオストロの城」
嗜好性の強い娯楽や作品傾向は、ゲームやパチンコと同じでプレイや観賞時に楽しければよく、こちらを考えさせたり、何度も観返す必要のある作りはむしろ邪魔になる。
PART5のような難解さや「複製人間」のような「何が面白いのかわからないのに面白い」程の謎はなく、ゲームやレースのような一回限りの快楽に浸って終わる。「カリオストロの城」がこれに近い。
「カリオストロの城」は、最初から最後までレースのような疾走感に溢れていて、物語の対立構造も登場人物の動機もアニメーションも気持ちがいい程単純明快で無駄がない。子供にもわかるように描かれている。
「カリオストロの城」がいまだに人気が高いのも、この作品がルパン三世の嗜好性やゲーム性をストレートに打ち出した最初の作品だったからかもしれない。
マモーの魅力
思えば、「複製人間」のマモーは、神に成ろうとする天才でありながら、随分人間臭いキャラだったと思う。その無謀さがいかにも人間らしかったのかもしれない。
抑揚豊かな声で、あらゆる場面で豊かな感情表現がされていて、人たらしのルパンに負けない程魅力に溢れたキャラクターだった。
マモーの名演技は、水戸黄門で有名な大御所俳優の熱演のおかげだけれども、地球を離れるという時に集めた遺産を焼き尽くす炎に涙する姿や、焼け焦げながら死に際に不二子に追いすがる姿など、敵ながらこちらの胸に訴えかけて来るものがある。
悪役に留まらない人間の生々しさは、悪役以上の何者かとして、私たちに強いインパクトを残す。後にウッチャンナンチャンのコントでコピーされる程のフォロワーを生んだ(当時の私は元ネタを知らなかった)。
度々書いているけれども、ルパンの作品の魅力はほぼ悪役の魅力度にかかっている。レギュラーメンバーは同じなのだから、毎回ゲストやヒロインの魅力次第で作品の出来はほぼ決まってしまう。
「複製人間」が不朽の名作なのは、主役を凌ぐほどのマモーの好演が大きいけども、マモーをただのマッドサイエンティストとしてだけでなく、人類が密かに抱えている願望や欲望、そして絶望の権化として描いたことだと思う。
天才的な頭脳を持ちながら愚かな男の壮大な試みに、最後は誰もが呆然としたはずだ。
いつの間にか主役のルパンよりも、敵役のマモーの一挙一動に目を奪われ、どちらが主役かわからないほど心を奪われている。