ルパン三世 PART5 ルパンVS五ェ門 Ⅱ ルパンvs不二子
五ェ門の辞書に「愛」という言葉はあるのだろうか?
暗殺者として生きて来た五ェ門に果たして愛はあるのだろうか?
これは何も五ェ門が愛を知らない冷たい人間という話ではなくて、五ェ門が暗殺者として生きて来た過去だけでなく、「愛」という概念が明治以降西洋から輸入された概念のため、元々日本人の文化にはなく、昔ながらのお侍の道を生きる五ェ門に果たしてその概念があるのかとふと思ったのだ。
「愛」という抽象的な概念が入って来るまでは、私たちは「慕う」「親しみ」「好む」「情け」のような感情表現で愛情を表して来たし、特に男社会では「義理」という通念で表されて来たと思う。
「義理堅い」というのは情けがあり忠誠心や愛情があることを示すし、「不義理」はその逆で情に欠ける冷たさを表す。「相手に尽くす」忠誠心は、形を変えた愛情表現でもある。
武士である五ェ門にとって愛情表現は何よりも「義理を通す」ことであり「義理堅い」ことであり「忠誠心」でもある。「義理」や「忠誠心」は多くの場合儀式のような形で表される。
冠婚葬祭のような儀式や贈り物、年賀状や御中元お歳暮など御礼状や贈答の文化など文化的儀式は、信頼や愛情を礼節のような形にすることで認められるものであり、恋愛関係では肉体関係を「契りを結ぶ」と表わす。
古い日本人にとってケジメは何より大事で、組を抜ける時に指をつめ痕を残す儀式など日本人ぐらいだろう。
そんな五ェ門の持つ文化において、ルパンと不二子の間の裏切りを伴う関係や、日常的に交わされる「愛している」「愛していない」など抽象的で浮ついた言葉を、五ェ門はどれだけ実体を持って理解しているのだろうか?
こう考えると五ェ門の数少ないロマンスで唯一相思相愛になった「ルパン三世 風魔一族の陰謀」が、若い娘との祝言から始まったことが今となっては理解出来る。
ルパンも不二子も冗談でもまだ式を上げていないのに、一番奥手の五ェ門がいきなり祝言から始まる展開にびっくりしたのだけど、五ェ門にとっての愛情表現は何よりも「義理を通す」ことであり、義理は儀式という形にすることで意味を成す。
だからまだ娘盛りの少女とろくに恋人時代もないまま祝言を上げたのは、それが五ェ門にとっての愛情表現、「I love you」だからだと思うのだ。
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