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ルパンvs複製人間マモー Ⅰ クローンとシャドウ、シュルレアリスムの映像表現
「盗めるアート展」の一部始終 200人がつめかけ、開始1分で10作品がすべて盗まれる
— 文春オンライン (@bunshun_online) July 11, 2020
主催者は「メルカリで作品が販売されるのは予想していた」 #盗めるアート展 #samegallery #文春オンラインhttps://t.co/zhGfVSJ7DR
公開されなかった押井守版のルパン三世は核爆発が起きて平和が奪われた中で、ルパン三世の存在も実は虚構で次元、五右衛門、不二子、銭形などが生み出した存在で、ルパン自体を観客から盗んで終わるという意欲作だったらしい。
— (パララッ)クマ (@parallaxma) July 10, 2020
盗めるアート展の話聞いて真っ先に思うのはこの話。
押井守は、これだけ価値観が多様で経済も発達して物が溢れている現代社会の中でルパンが盗むべき価値ある対象は無くなったと主張する。
— (パララッ)クマ (@parallaxma) July 10, 2020
盗むべき価値ある存在を知らせるルパン三世自体を奪うことで逆説的にそのことを知らせようとした、らしい。
押井ルパンの構想はどうしてもこじらせてる感があって好きになれない。ルパン三世という枠を壊すことで意義を求めるのではなく、ちゃんと土俵の上で勝負しなよと思ってしまう。複製人間みたいに。
いつだって巨匠たちは名を上げるために既存のスキームを壊すことばかりする。作品を尊重し最大限の効果を上げる職人的なアニメーターやクリエイターは歴史に埋もれがち。
盗むべき価値ある対象がなくなったなんてことはない。PART5をみれば、ルパンが盗む対象が物から情報やシステムに代わっているのがわかる。
いつの時代だってこの世の支配を目論む支配層がいる限り、ルパンの盗みは永遠に終わらない。
複製人間の凄さ面白さは謎である。何が面白いのか、どこが面白いのかよくわからないまま、一秒たりとも画面から目を離せずクライマックスに到達する。
30年間今でも毎年必ず観るクリエイターがいる。こんな凄い作品を作った吉川惣司監督が、これ一作しか映画を作らなかったのは不思議で仕方ない。才能がたくさんアニメ業界に集まっていたのだろう。
2ndの北原健雄作画監督と共に、もっとルパン三世で仕事をして欲しかった人の一人。
シュルレアリスムとシャドウ
「複製人間」には、マモーの館に迷い込んだルパンがダリの絵画などシュルレアリスムの幻影に入り込むシーンがある。シュルレアリスムは、ユングの精神分析をベースに生まれた絵画表現である。
スピルバーグの「激突」のオマージュにしても、姿の見えない追跡車の恐怖が、ルパンがまるで自分のシャドウと戦っているような錯覚を起こさせてるのが上手い。
シャドウもまたユングの精神医学上の概念で、自我を否定し破壊しようとする人格の暗い側面、影の部分のことを言う。
冒頭のルパンのコピーが死刑台へ向かう階段のシーンから、脚本だけでなくカット割りなども、姿の見えない敵が迫りくる様子はどこかホラー映画のようで、あたかもルパンのシャドウのように演出されているのかもしれない。死刑執行シーンも全部モノクロ=シャドウ。
「複製人間」のオマージュやパロディの通底に流れているのは、見えない敵の姿を借りて迫りくる敵に、ルパン自身のシャドウを重ね合わせている。
シャドウもクローンも「もう一人の自分」という意味では同じで、物語上ではクローンとして、映像表現ではシャドウとして、物理的にも心理面でも、ルパンの「もう一人の自分」という概念がテーマとなっている。
大型トラックとのレース
#ルパンVS複製人間
— タイプ・あ~る (@hitasuraeiga) April 19, 2019
ルパンたちが大型トラックに追いかけられるシーンを見たアニメーターの大塚康夫さんは「あれケンワースのビッグリッグっていうアメリカのトラックなんだけど、あまりにもデカすぎてサイズ感のリアリティが全然ない」と批判していたらしい(確かにデカいw) pic.twitter.com/3leHH6RuBc
現実ではありえない巨大なトラクターは、非現実的な大きさだからこそ、迫りくるシャドウとして、ルパンの内面の心理描写として表現されている。
こんなにも非現実的な巨大な大きさにしたのは、実際の大きさよりも「より巨大な」脅威としてルパンの前に立ちはだかっているからで、ルパンにはそう見える、そう感じられるということ。
幻想という程でもなく、過度に誇張されているのだけど、一見アニメーションによくある誇張やデフォルメといった表現を、「複製人間」は心理学の文脈で、人の内面の恐怖や心理を表現するのに上手く利用していると思う。
ちなみに、このカーレースシーンの車はミニクーパー。二年後の「カリオストロの城」のフィアットのモデルになったと思われる。なぜなら、崖の沿道でのレース、ガードレールを使った小競り合い、崖を駆け上り森にツッコむシーンなど、よく似たシーンの連続だからだ。
二作目の映画公開で、同じ崖上のレースシーンを二度も見せられた当時のファンはどんな気持ちだったのだろうと思うと同時に、宮崎監督が「複製人間」のレースシーンに大いにインスパイアされたのがわかる。
後にフィアットがルパンの車になり、ミニクーパーが「シティーハンター」の車になったことを思うと、ハードボイルドなアニメのカーレースシーンに小型車を使うというアイディアの先駆けだったのではないかと思う。
「複製人間」と「カリオストロの城」の二つのカーレースを見比べてみると、「複製人間」のカーレースがいかに恐怖心を煽る画面構成になっているのかよくわかる。
非現実的な大きさのトレーラー、宙に浮かぶガードレール上を片輪走行するルパンの車、山や谷のように高低差の激しい道路のアングル。アニメだからというのを超えて、これらの非現実的なシーンの連続は不思議な浮遊感を与えていて、この作品に随所に挟まれている幻想や幻影の一部にも見える。
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