ルパンVS複製人間マモー Ⅱ ルパン三世の証明
「複製人間」は1stのルパンを想定して作られたという。昨今の「ルパン三世」はファミリー向けが当たり前になってるけど、「ルパン三世」は当初から「大人向け」アニメとして登場してる。そのため、いくつになっても鑑賞に耐えられるアニメ作品になっている。
キリコの騙し絵のオマージュやスピルバーグの映画のパロディとか子供にはわかりにくい。
若者向けということで、ルパン史上、ルパンと不二子が一番恋人同士っぽいのもこの作品。ルパンが不二子を「お前」呼ばわりしたり、最後の脱出シーンでも不二子を叱ったり、昭和の男らしいルパンと昭和の女らしい従順さが残る不二子が珍しくもあり、時代を感じさせる。
マモーはクローンとシャドウでルパンを脅かしルパンの実存を疑わせて取り込もうとしたのだけど、ルパンは不二子を使って、不二子を通して自分の実存を証明した。マモーの前でいちゃつくというやり方で(笑)
ルパンにとって不二子がいるということが自分の実存の証明になる
ルパンは自分で自分がオリジナルだと証明出来ない
でも、不二子の恋人はルパンであるから、不二子を救うことが自分はクローンではないことの証明になる。
逆説的だけれども、男女の関係の本質的な部分でもある。だからこそ、ルパンは不二子を救わねばならない。取り戻さなければならない。
最後のキスシーンで不二子がキスを求めるというのはただのいちゃつきじゃなくて、男女は子孫を作っていく。それもある意味クローン。
これは摩毛狂介のタイムマシンで消されそうになった時とよく似ている。この時もルパンは自分が存在していたことを証明するために、不二子を使って種を残そうとした。
マモーの名前の由来も摩毛狂介からだという。
どんな時も大抵余裕のルパンが、存在を抹消されそうになる時だけ激しく動転するという指摘は面白い。
スーパーリアリストのルパンにとって、死よりも自分の実存が脅かされることの方が怖いのだろうか。
死ぬかもしれないということより、自分が生きていた事実が消えたり、自分が唯一でなくなることが怖いのかもしれない。
ルパンが次元を振り切ってマモーの所へ不二子を奪いに行くのは、不二子がルパンの実存の証明でもあるからで、この時のルパンは不二子を救うためだけでなく、自分が救われるために、自分が勝利するために不二子が必要だった。
だから「夢奪われたから」と曖昧な返答になったのかもしれない。
ルパンがルパンであることを証明するのが不二子の存在というのは、とても熱いラブロマンスだけれども。
最後不二子がルパンにキスを求めたのは、ルパンが不二子を救ったのは、自分のためなのか、それともルパン自身のためなのか、不二子が真意を確かめたかったのかもしれない。
その答えはキスシーンと同時に不二子の乳首を押すというルパンらしい誤魔化しになってしまった。そして、不二子はルパンを置いて次元の救援と共に去ってしまう。
隠しきれないルパンのエゴイスティックな欲望は、誰かのために犠牲になるのではなく、自分のために誰かを救う。
壮大な哲学的なテーマを扱っても、EDの三波春夫が歌う「ルパン音頭」のように、ルパンのエゴは、仲間たちを、私たちを楽しい日常へと再び戻してくれる。
クローンを恐れるルパンの心理は、子供を持ちたくない心理でもある。自分の唯一性絶対性が崩れてしまうから。
ルパン三世はオンリーワンのまま、二人は永遠の恋人同士のままなのかもしれない。
ルパンと不二子、永遠の恋人同士のこの二人の美しさは、男女なのにまるで双子のような対称性を持つからかもしれない。
ルパンを相手に一歩も引かず出し抜くことさえ平気な不二子はどこまでもルパンと対等でルパンの恋人だけれども、ルパンの女房役として補い合う次元の方が夫婦らしく思える。
マモーの元へ不二子を救出に行くルパンを必死に止めた次元。
常にルパンの身の安全を願う次元に対し、常にルパンを危機に陥れる不二子(笑)
ルパンの補佐として主従関係にある次元に対して、ルパンを女にしたような対称的な不二子。原作者が双子座生まれというのもあるかもしれない。
次元相手にしても、不二子にしても、パートナーの存在で自己確認し日常と非日常のバランスをルパンは保っているようにも見える。
完成前に作成されたポスターだったため、銭形がまるでラスボスのように描かれたという。ルパンと不二子だけがカラーなのは、作者の中でルパン三世は基本的に「ルパンと不二子」であるからではと思う。映画の内容にも合っている。
まるでせっかくの深いテーマを台無しにするような、意表を突くEDの「ルパン音頭」に吉村監督は当初怒り心頭だったらしい。当然である(笑)。けれど最終的にはその選択に理解を示したのも、神の采配と言うべきか。
1stのテーマでもある「一期は夢よ、ただ狂へ」を歌にしたような「ルパン音頭」。
クローンに追い追われ、永遠の生命を否定したラストを「ルパン音頭」で閉める最後は、人生は所詮祭であるというルパン三世の答え。
重いテーマを抱えているせいか、「複製人間」のキャラデザやアクションは、1stや2ndよりもずっとコミカルに描かれている。
「人生は祭」とは、昔の自分なら刹那的なメッセージに感じただろう。でも、年を経るごとに時間のスピードはどんどん速くなって行く。子供の時は一日が一年が永遠のように感じられ、どうしようもなく長く感じられたのに、人生も半分を過ぎると一日も一年もあっという間で加速度的に早くなって来る。
そうなると、「人生は祭」「一期は夢」は刹那的でも何でもなく、実際人生は祭のように驚くほど早く過ぎるものであり、ボヤボヤしている間に年を取り人生が終わってしまう。
そしてそのことに気づくのは大分後になってから。人生において時間は等しく流れていない。
ましてやルパン三世のように超人的な体力や反射神経で動いたり、超人的な集中力で頭を働かせられるのは、若い内の限られた間だけ。それは「一期の夢」のように一瞬で過ぎ去ってしまう。
古くから数多の作品で言われて来たこと、「ルパン三世」に込められたメッセージは、普遍的なものだった。
ルパン三世の「一期は夢よ、ただ狂へ」は、若さ故の刹那ではなく、ルパンの老成した精神の達観、諦念なのかもしれない。