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スペースノットブランク『サイクル』&『ストリート』評(2022.04.10 追記)

 スペースノットブランク小野彩加さん中澤陽さんが舞台作品を上演するためのコレクティブです。2021年9月上旬、スペースノットブランクは2つのダンス作品を上演しています。ひとつは、小野さんが標本空間vol.1「無選別標本集」で発表した『サイクル(ワークインプログレス)』(中澤さんは同作に大きく関与してはいません)。もうひとつは、富士見市民文化会館 キラリふじみで上演された『ストリート』です。

・サイクル① 展示

 『サイクル』は展示と上演の2形態で発表されました。北千住BUoYで9月3日に上演が、それから3-5日にかけてビデオ・インスタレーションの展示が行われていました。クリエーション・メンバーは小野さん、つくにうららさん、渚まな美さんの3名です。
 展示では3つのスマートフォンが観客の目の高さほどの位置に、それぞれ一定の間隔をあけながら垂直に立てられていました。小野さん、つくにさん、渚さんの3名がおそらくは各々の自室で日々録りためてきた動きが流れています。『サイクル』は3人がおよそ3か月の間、1日につき1つの動きを映像に記録し、それをつなげて展示/上演した作品なのです。
 映像が撮られるカメラの位置は常に固定されており、動きは定点観測されています。重要なのは、3人が踊り始める前にまず画面端から現れ、画面中央で動きを示したのち、再度画面端へと消えていく、その一連の動作のすべてが編集で切り落とされることなく映像に収められ、展示されていることです。まずカメラの枠外でその日の日付が声に出され、それからパフォーマーが画角に入り込んでくる、こうした一連のシークエンスが動きの間に挟まれリズムをつくり出していきます。
 スマートフォンの小さな画面は、個々の動きに注目していると他の画面がほとんど目に入らなくなるような絶妙な距離感で並んでいて、全ての動きを一望して眺めることは困難でした。しかも、映像は動きが示される時間とパフォーマーの移動時間とからなっていて、いわば動きのオン・オフの時間系列が非同期的に三つ並行して走るかたちになっているわけです。観客は視線を左右に投げやってそれを追わねばならず、わたしは特定の時間の枠組みに定位することのままならない酩酊感に襲われました。
 それからそれぞれの撮影時において、3人はスマートフォンの手前にいて、動画の撮影開始のボタンを押してからパフォーマンスを始めているはずです。つまり3人はスマートフォンという機器について観客と同じ位置関係にある<観るわたし>の位置から<踊るわたし>へと歩み出て、また<観るわたし>の場へと帰る往還運動を映像に刻んでいるのです。

・サイクル② 上演

 展示では<観るわたし>によって間隔が設けられて離散的に継起していた、<踊るわたし>の個別の動きが、上演では連続的につなげられます。『サイクル』の上演はある意味ではシンプルで、3か月間観測されてきた動きを、3人がそれぞれの持ち場で最初から最後まで踊り切るものです。しかしその動きの質感はきわめて奇妙です。あらかじめつなげることを想定されていないばらばらの動きが連続的に遂行されるからです。
 一日おきにいくつもの動きを考案して生み出してきた思考と身体の運動性、その3か月の持続が、30分の現在に凝縮して展開されることになります。撮影時には安定した姿勢から開始できていた個別の動きを矢継ぎ早に繰り出さなければならず、ダンサーは過去の自分の身体の痕跡に駆り立てられて突き動かされるような奇妙な現在を生きることになるでしょう。<いま・ここ>の次元を超えた過去からの持続が再演されます。制作プロセスで間歇的に進行した時間性、その足跡が上演の現在においてたどりなおされ、かたちをかえて足どりの運動性を回復します。均質な時間に慣らされた延長としての身体がゆがんだ時間をくぐりぬけていき、時間の厚みを生きる身振りを取り戻していくわけです。

 ところで、上演版では舞台と客席の間に明確な境界がひかれますから、展示版では連続していた<踊るわたし>と<観るわたし>の役割が、ダンサーと観客との間で形式的に分担されることになります。
 しかし、展示版について確認された、観ることの現在に自分を定位することの困難は、ここにも生じています。離散的な個々の動きがつなげられたその運びを一連のシークエンスとして同定するのは困難だからです。それをまとまったひとつのチャンクとして同定し、対象化して鑑賞することはきわめて難しいはずです。
 さらにいえば、ダンスは時間芸術であり、そこには進行の論理があります。観ることは常になんらかの予測を伴っているわけです。しかし『サイクル』の不連続性においてこの予測の原理は崩壊します。
 わたしは不連続な動きの連続を追うめまいのような感覚のなかで、この二重の時間性をダンサーとともにたどっていくことになりました。抽象不能なばらつきをもつ目の前の動きをただひたすらに追っていくことになるわけですが、しかし同時に、それは観ながらにして別の時間を観ることであり、かくして観ることは踊りとして遂行されるのです。

・ストリート① 「歩行者」と「観客」

 『ストリート』を観るためにキラリふじみのアトリエを訪れた観客は、まず3つのグループに分かれて小野彩加さん、花井瑠奈さん、山口静さんという3人のダンサーにそれぞれ導かれ、キラリふじみの屋外へと連れ出されました。パフォーマンスは屋外の三地点から始まります。この時点では観客は各グループにつき1人のダンスしか観ることはできません。それぞれのダンサーは路上で踊り出し、キラリふじみへと歩みを進めます。観客はこれをじっと観ているわけにはいかず、ダンサーとともに足を進め、その都度自分の観る位置を調整しながらこのパフォーマンスに参与することになります。
 やがて3人は合流し、ふたたび分散して、キラリふじみを動き回りながらパフォーマンスを繰り広げます。
 キラリふじみは広いカスケードの水面がみなぎる中庭を囲むようにして造られた、ガラス張りの建物です。どこにいても他の場所がよく見える風通しのいい空間です。
 <踊るわたし>と<観るわたし>の混淆を、ここで観客は少なくとも二つの次元で経験することになります。
 一つには、誰のダンスを近くでまなざすかを決定し、より自分にとって心地よい視点を選択し、その場に身体を運んでいく一連のシークエンスにおいて。それは言うまでもなく一つの身振りであって、ここではじっとしていることの選択でさえある種の踊りと化します。
 さらに観客は、観ることを選択し続ける限り、パフォーマンスに組み込まれた<観るわたし>として対象化され、他者のまなざしをあびることになります。
 『ストリート』は観客数を極小に絞ってあり、予約枠は10名分しか設けられていませんでした。その観客たちは鑑賞料として500円を支払いこのパフォーマンスを観ることになったわけですが、キラリふじみは複数の使用目的に開かれたパブリック・スペースで、当日も他の用途で訪れた来場者が多く存在していました。キラリふじみの全体をアクティング・エリアとするからには、そうした来場者のすべてが偶然の観客となり得ます。
 しかし、劇場内部の空間はともかく、中庭や廊下、ロビーは本来上演のために用意された空間ではありません。ですから『ストリート』のダンスは通常の空間の機能を異化する異物として働きます。通常の空間使用とパフォーマンスという二つの行為の系列が空間に同居するわけです。すると前者の行為の系列に属する来場者にとって、パフォーマンスを観るという行為を選択する人びとの存在自体が奇異なものとして目に映るはずです。
 かくして『ストリート』の観客は二重の踊りを遂行することになるのです。

 そういうわけで、実は、予約をせずチケットの代金を支払っていなくても、来場者が観客と同じだけの間パフォーマンスを鑑賞することは十分に可能だったわけです。これは、劇場にやってくる「観客」と、その周囲を往来する「歩行者」との境界を融解させる操作です。実際『ストリート』の稽古はしばしば街中の路上で行われ、そのたびに道行く人から反応を集めてきたと、アフタートークでも言及がありました。
 とはいえここで興味を惹かれるのはむしろ、それでもなお予約と鑑賞料金の請求、来場人数の調整によって、「観客」のシステムが維持されていたことです。実際、予約不要で代金無料のパフォーマンスだったら、『ストリート』はまた全く性質の異なる舞台になっていたはずです。
 『ストリート』については観る人に区別が存在していたわけです。その違いをていねいに確認しておこうと思います。
 ひとりはパフォーマンスに偶然邂逅する「歩行者」です。「歩行者」は、自分の過ごしている空間で急にダンスのパフォーマンスが始まってしまったらしいことを、驚きながら受け入れます。その気づきは、ダンサーの動きが目に入ってもたらされたのかもしれませんし、不自然に特定の方向に向けられた周囲の視線に促されてということもあるでしょう。しかしたいていの場合「歩行者」は別の目的を持ってその場に来ていて、つまり別の行為の系列に所属しているので、やがてパフォーマンスを「通過」して本来の行為へと帰ることになります。「歩行者」はストリートが『ストリート』となる空間の二重化の作用、異化効果の快を味わうでしょう。
 対して「観客」はこの異化効果をパフォーマンスの初めから了解しています。「観客」は鑑賞行為の系列に初めから終わりまで帰属し、鑑賞のフレームをあらかじめ特権的に占有しています。このことが「観客」に特有の経験を可能にするとして、それはいったいどのようなものだったでしょうか。

・ストリート② 目を奪いながら手放す

 『ストリート』のダンスの特異性はまず第一に歩行をベースにする点にあります。ダンサーたちは足の歩みをとめることがほとんどないので、それぞれの動きは連続的に続けられます。
 しかし、逆に言えば、それぞれの動きはこの前進運動以外に全体を統御する文脈を持ちません。ある動きAが生み出されると、それを引き受ける仕方で次の動きBが繰り出され、今度はそれを受けてCが展開されるのだが、AとCはいまやほとんど関連性を持たない、そうした仕方で運動は生起していきます。その運動性は連歌に近しいところがあります。
 したがって、『サイクル』ほどではないにせよ、『ストリート』のダンスもまた特異な離散性を備えることになります。
 この時、上演の全体と個々のシークエンスに、通常の包含関係は成立しません。『ストリート』に展開はまったく欠けていたわけではありませんが、一連の動きは特に完結性を備えておらず、上演時間に合わせて自在に伸長できる種類のものです。
 したがって「観客」はその動きのすべてを追い全体像をつかむ必要はありません。そのような像は初めから存在していないからです。このことは、ついていった1人以外のダンサーのダンスを観れなくしてしまう最初の操作によって「観客」に明示されています。
 一方でそのダンスは離散性のゆえに予測不能な展開をつぎつぎに産出していきますから、絶えず目を引きます。安心して目を離せるのだけれど、ずっと観ていたいような心地にさせる、そうした視線を促す踊りなのです。
 屋外で自由に移動しての鑑賞が可能なダンスの上演は、おそらく数多くの類例が存在するでしょう。しかし、『ストリート』は殊更に目を引く派手な動き(ex. パレード、神輿)でもなければ、空間の異化を焦点化したひそやかな身振り(ex. アグネス吉井)でもありません。それは人の目を奪いながら手放す踊りなのです。

・ストリート③ 時空間を縫う

 今回は野外での上演ですからいくぶん自然ですが、音楽の不在はスペースノットブランクのダンス作品に通底する重要な特徴です。音楽がないので、ダンサーの身体は外在的な時間進行に支配されることがありません。あくまで自身の身振りが生み出すリズムに即して動きを進めていきます。むしろ、ダンサーの身体を震源として、空間の時間性を再編しているのだと観ることもできます。
 ダンサーの身体が生成する固有の時間性は、歩行の動作の連続性によってさらに強調されます。
 ストリートは特定の劇場空間での上演を想定していません。したがって、足場がごつごつしていたり、あるいは雨の後で滑りやすくなっていたり、進路に他人や障害物が立ちはだかっていたり、そうしたすべての可能性を考慮して踊らねばなりません。そのため寝そべるような動きや、重心を過度に不安定にする動きはほとんど行われず、ダンサーは確かな足取りで踊りを遂行していました。
 それは、環境に対しその都度反応しつつも、環境に流されきらない強度ある身体を体現することです。この強度のゆえに身振りは固定された予定調和を超え出て反応性の高い動きを連発していきます。この身体は縫うようにして環境の時空間を再組織していきます。
 ですからこの身振りがもたらす作用は、単なる異化作用にはとどまりません。「歩行者」がパフォーマンスによって空間について別の行為の系列へと抜け出ることの衝撃は「一」過性のものです。『ストリート』が「観客」にもたらすのはむしろ絶えず時空間をつなぎなおしていく縫い合わせの作用です。「観客」はこの持続的な空間の再編成に長く付き合うことになります。この長さの内実にこそ『ストリート』の豊かさがあるわけです。
 「観客」は観るにもかかわらず動き踊ることまでもが許されている、のではありません。むしろ逆に、動きまわり、観られることが自然な屋外の環境で、それでもくりかえし<観るわたし>になることが要請されているのです。観ることのフレームを境にした、<観るわたし>と<踊るわたし>、そういうわたしの表面と裏面を、繰り返し細かく通過していくなみ縫いが『ストリート』なのです。

・サイクル③ 変換

 『サイクル』は2021年の末に開催されたイベント「Whenever Wherever Festival 2021:Mapping Aroundness――<らへん>の地図」内の企画「未来アナーキー」で、ワークインプログレスのかたちで再演されました。出演者は小野さん、鈴鹿通儀さん、山口さんです。スペースノットブランクのホームページではサイクルのステートメントは2022年3月現在次のようなものになっています。

サイクルは観測である。観測は自らのために行われる。連なり、蓄えられる再生不可能な日々と動きを、再生可能なメディアすなわち振付にする。数ヶ月にわたり観測し記録された動きを身体によって繋ぎ合わせる。自意識の外部でただ繋ぎ合わせた動きを、さらに別の身体によって拾いあげる。生成された動きを複数の身体と関係させることで記録は開示され肥大する。身体の(身体による)カタルシスの次なる進取。

ここから読みとれるのは、まず、流れゆく日々の振付の中で、特定の時間や空間に枠づけられない自律性を持つ「再生可能なメディアすなわち振付」を「記録」として抽出する態度です。通常の時間進行とは異なる複雑な時の流れを身体に強制する媒介として振付が存在していることはすでに確認した通りですが、この振付は「さらに別の身体によって拾いあげ」られます。
 アフタートークによれば、従来のサイクルの方法で小野さんが観測し記録した動きが鈴鹿さんと山口さんに受け渡され、二人はそこから派生した身振りを踊っていたそうです。身体から共有可能なかたちや構造を抽出し、他者の身体を通すことで変換するという方法は従来の『フィジカル・カタルシス』シリーズを貫通するものですが、『サイクル』の場合、その重要性は演者の身体の同期を促す点にありました。
 初演時の『サイクル』では、ダンサーたちは自分にあてがわれた身振りを展開していけばよいので、他者の身体と同期する必要はありませんでした。各自が自分の持ち分の動きをとにかく踊り切ればよいのです。ダンサーたちは踊り切った順に、自然体に戻って他のダンサーを見つめていました。
 対して今回のバージョンでは、ダンサーの身体間の照応関係を観客に読ませる必要があります。小野さんの身ぶりAが、いかに山口さんのA’や鈴鹿さんのA’’になっているかを提示しなければならないのです。もっとも、この変換ルールは曖昧で、多くの場合観客はA-A’-A’’の対応関係の読解に失敗することと思われますし、これらの身ぶりが常に同時に展開されているとも限りません。あるいは、このA-A’-A’’の関係を観客にどう読ませるかよりも、それらを時空間上にマッピングしていく演出者の読解行為が上演を規定していることの方が重要であるのかもしれません。いずれにせよ、三者の身体は進行ペースを共有します。

・サイクル④ 自然体

 結果として、<観るわたし>の身振りが振付にはリテラルに導入されることになりました。おそらくは振付の進行ペースを調節することを目的の一つとして、踊りを停止し他ダンサーの踊りを眺める身振りが導入されたのです。
 初演では、<踊るわたし>と<観るわたし>がダンサーと観客にそれぞれ形式的に分担されたうえで、後者の鑑賞経験にもダイナミックな舞踊的性格が見られたことを、すでに指摘しました。しかし、そこでは、撮影時にはダンサーに内在していたはずの<観るわたし>の役割がほとんど観客に明け渡されてもいたのでした。
 対して今回の再演では、ダンサーはかなりストレートな仕方で<観るわたし>の身体を舞台上に回復します。しかし、これもダンサーと観客の境界を曖昧化する操作として受け取ることは難しいように思われます。先に「踊りを停止し」と書いてしまいましたが、実のところここでは観ることはどこまでも踊りとして遂行されるほかないし、また観客にそのように受け取られることを免れないからです。その身体は、いくつもの身振りをすでに通過し、観客の視線を一身に受け、そしていつでも踊りだせるような独特な運動性を静止しながらに備えているはずだからです。
 演者が演技を解除するかのようなこうした演出は他のスペースノットブランクの作品、たとえば『舞台らしき舞台されど舞台』や『光の中のアリス』といった演劇作品にもあてはまります。この点について演者にどのような演出指示が為されているかは定かではありませんが、おそらく、かなり演者の裁量に任されているのだと思われます。というのも、『サイクル』で<観るわたし>をダンサーたちが遂行する仕方には大きな違いが見られたからです。鈴鹿さんは身体の向きを調節しながら他ダンサーたちから目を離さずにいたのに対し、山口さんは時にダンサーのいないあらぬ方を見つめてぼうっとしているようにも見えたのです。
 踊りを見つめていて、つい集中が途切れ視線が虚空をさまようことは誰しもあるはずですが、しかしここで問題なのは、そのほとんど作為を感じさせないリラックスした自然体のしぐさがそれでもなお踊りに組み込まれていることの方です。観ることを踊りとして自覚する時、普通は緊張というか、観ることの自意識が生じるはずです。「観ていますよ」というポーズを観客に提示したくなるということです。しかし、『サイクル』での山口さんのたたずまいはそのようなものではありませんでした。それは踊りの零度、踊っていない状態としては受け取れないものだけれど、かといって「観ることを踊りとして遂行する」といったときにイメージされる作為もそこには感じられません。そういう、言ってしまえばいい加減で曖昧な自然体の身体が身ぶりの連続を切断するかのように挿入され、しかもそれが全体のパフォーマンスを破壊するどころか、独特な質感を作りだしているのです。
 それは既成のダンスの文法から排除されてきた日常の身体を取り込むジャドソン教会派の方法を思わせます。しかし『サイクル』の場合それはコンセプチュアルな実験や既存の文法の破壊に向かうものというよりもむしろ、独特な空間の質を生み出すものです。<身ぶりのシークエンス>の行為系列に<自然体>という行為系列をぶつけて前者を異化し、その強度を逆説的に顕示すると同時に、複数の行為系列を組み合わせることで時空間の秩序を再編しています。その意味では、再演された『サイクル』は『ストリート』の延長線上に位置する上演でもあったでしょう。

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