永遠に封じ込められた愛❷ 心に浸みる嘘の恋愛バンコクギック物語 マイミータン
タイトル
テーマ
時間煮雨
https://m.youtube.com/watch?v=_l-Mtr-lCAU
心に浸みる嘘の恋愛
バンコクギック物語マイミータン
タニヤとパッポンに明日は来る?
第1章
テーメーカフェに現れたタニヤ嬢
アソーク駅とナナ駅の中間にあるテーメーカフェに観光シーズンには70ー80人もの嬢が壁際に立つ。実際には一晩で200名が出没する。その中に、流暢な日本語が話せる嬢がいた。
聞いてみるとタニヤで働いていたという。
「3回も日本に行ったよう」と笑顔いっぱいに答える🤣
よほどいい日本人駐在員を見つけたのだろう。タニヤのキャバクラ店内だけで話していても、決して流暢にはしゃべれない。
深く、それこそ恋愛関係が半年から1年ほど続く関係にならないと日本語はしゃべれない。
実際にタニヤに行っても日本人と思わせる嬢(タイ人)は滅多にいないことに気づく。
わたしは特別、美しいタニヤ嬢とテーメーで知り合っていたのだった。
名前を言えば、狭い日本人社会なので、彼女に迷惑がかかる。
テーメーきっての若くて日本語堪能の美女と言えば、彼女しかいない。
この話のエリア シーロム地区🤬
バンコクを代表する夜の歓楽街で、パッポンやタニヤを抱えるエリア。東京は丸の内のように、昼はビジネス街としてサラリーマンやOLが行き交うが、夜になると女性ホステスや、デニムの短パン・ダンサーが出勤してくる。
また、男同士(ゲイ)のハッテン場として知られるソイ4番通りやマッサージやサウナやディスコ店もあるため、男・女、さまざまな性の人々が集まり、深夜まで賑わっている。
タイには8つの性がある。日本人には理解出来ないので、いずれ日本が東の極に浮かぶ孤島だった事に気づくまで分からない。
最寄り駅はBTSサラデーン駅や、地下鉄MRTシーロム駅、ルンピニー駅。日本人だけでなくタイ人から外国人観光客まで多種多様な人々が集うエリアだ。
パッポン
タニヤ通りの西側約100mに位置する並行している通りが、パッポン通り。
主に欧米人観光客向けのゴーゴーバーやビリヤード。そして、夜になると通りを埋め尽くすパッポン・ナイトバザール(今は無くなった)で有名な通り。
パッポンは第二次大戦後に中国の海南島から移り住んだウドム・パッポンという人が、まだ小さな運河と古い民家しかなかったこのエリアに数軒のバーを作り始めたのが始まり。
パッポンは人の名前を由来している。
当時、バンコクの夜の盛り場といえば、ニューペッブリー通りがメインで、夜の娯楽はバーやマッサージパーラーが中心だった。
しかし、1964年のトンキン湾事件でベトナム戦争が激化し、大量のアメリカ軍がベトナムに投入されるようになった。それから状況が一変したのだ。
戦地から保養に返ってくるアメリカ兵の保養地として、さらに歓楽街として、パッポンとタニヤは急速に発展する。
1967年には初めてゴーゴーバーができ、戦況で泥沼化していたベトナム戦争により精神的に追い詰められたアメリカ軍の若者が、ダンスミュージックの爆音が響く店内で、露出度の高いコスチュームを身にまとったタイ娘たちと、酒やドラッグに溺れながら、次に戦地に向かうまでの束の間の「生きる時間」を楽しんでいたのだ。
つまり、当初からアメリカ人(ファラン)向けの街としてスタートした。
大音量でクラブミュージックが流れる店内でセクシーな衣装を身に着けた女の子が踊るスタイル。
パッポン・ナイトマーケットでベトナム戦争の米兵がメッセージを刻んだジッポーライター(模造品)や、ウオッチなど米軍放出品風の雑貨が売られているのはその時代の名残。
今や世界のブランド品が破格の値段でところ狭しと並んで、んっ、ない❗️
マーケットがないぞ! 消えてただの通りに返っている😂
パッポン通りが栄えるにしたがって、日本人駐在員向けのクラブもパッポンにでき始めます。そうしたなかに、今でもタニヤにある老舗の「クラブ愛」などもありました。
クラブ愛は何と40-50年もの歴史があり、パッポンとタニヤの生き証人だった。
一方、タニヤ通りはといえば、1970年に現在のBTSサラデーン駅付近(当時はBTSはありません)にタニヤビルディングが建設された。これは住友不動産がデベロッパーとなり、大林組が建設したオフィスビルで、多くの日本企業が入居していた。
第2章
タニヤ・タニヤ・タニヤ
本題
夕方になるとドレス姿のホステスたちがどこからともなく現れて路上で日本語で客引きをする光景が見られる。シーロム通りとスリウォン通りに挟まれた200メートルほどの短い路地には150軒近くの飲食店とカラオケ店がひしめき、寿司やカレーやラーメン、居酒屋も多い。
ここでで働く日本人駐在員達が夜遊びに繰り出したり、日本から来た重役や、商談相手をもてなすため接待をする飲み屋街としてタニヤは発達して行くことになる。
「クラブ愛」などもタニヤ通りへ移転し、パッポンは欧米系のゴーゴーバーエリア、タニヤは日本式のクラブのエリアと住み分けが出来て行きます。
その後に、タニヤの歴史を大きく変える事態が起こる。
80年代にできた映像型カラオケ機械が普及し始め、各クラブに一気にカラオケ機器が導入され、これが大きな転換点になった。
日本人向けのクラブのことを「カラオケ」と呼ぶようになったのもこの時代。
これを転機に高級クラブ一辺倒だったタニヤの店が、パブやキャバクラのテイストを取り入れる様になり、お店の多様化が進む。
そのうちの一店であるアルカディア(現在のサティカ)がタニヤに「セット料金制」を持ち込み、タニヤのお店の敷居を下げることに成功した。
また、こうした敷居が下がる転機に加えて、日本のバブル景気の到来で日本企業の進出、観光客の来訪が増大したことにより、最盛期には100店を超す店が立ち並ぶ状況に。(カラオケ戦国時代の幕開)
1997年の世界通貨危機による景気の落ち込みで、一時期はクラブなどの店が減りましたが、その空いたスペースに日本料理店やコンビニエンスストアが進出して、街としては便利になってゆく。
現在では、東南アジアの拠点に企業やビジネスマンが集まり、タイマーケットを狙った進出等が盛ん。タイ政府としても投資の呼び込みに意欲が旺盛であり、タニヤも多くの日本人で賑わっていた。
ここを訪れた人は、タニヤとパッポンのすぐそばにゲイタウンがあることに驚かされる。サラディーン駅の降り口にはゲイタウンと、レディーボーイ店など、この国が様々の性が混在する街だということに気づく。
それらはファランの観光客がタイに入国出来ないため、多くが店を閉ざしたまま。
タニヤはコロナが蔓延する前には65店もの店があり、今では店をオープンしているのは10店舗未満。
飲食店はタイ人経営者になってタイ人向けレストランに衣替えしている。
第3章
パッポンは通りが1-2とあり、タイ人経営の店、ファラン経営者の店と色分けされる。
多い順でフランス、オーストリア、ドイツでそれぞれ2-3店舗。
開かない店と開いてる店が半々。
開いててもお客はいない場合が多い。
Gogobarには20代前半の働き出して間もない嬢が多い。そしてすぐいなくなる。
なぜだ?
タイ人はお店の相性とか、
友だちがいるから働くというのが、職場を選ぶ理由のトップ。
友人が辞めると、糸が切れたタコのように店から消えるのだった。
凄いダンサーになると、エージェントのスカウトに拾われ、シンガポール、マレーシア、
香港、台湾へプロのダンサーとして出稼ぎに行く嬢もいる。
しかし、幸せなはずはない。
このコロナ禍の下、どの国にも稼げる職場などない。
疲弊してバンコクに舞い戻って来る。若いのに妖艶で凄みがある美貌のダンサー。そんな娘に会えるのが、今のパッポン。
そうでない娘もいるけど、
70年前のバンコク
タイのダンサーの頂点に立つのは、
ラリサ・ドノバン。ブラックピンクのリサ。
確か彼女はプリラム出身。
韓国に渡りKPOPのスターとして凱旋帰国した。
その話は以前にも書いたので省くが、芸能界ではない、エンターテイメント施設、つまりGogobarに彼女たちはいる。
踊るとすぐにペイバーされて、いつも秒殺❣️
すぐ姿を消すので存在が知られない。
中に二度と現れない嬢もいる。
そう、ダンサーからギック(愛人)に選ばれたのだ。
ダンサー→ギック
キャバクラ嬢→ギック
こうして日本語堪能な嬢が出来上がるムニだ!
韓国に渡ればギックアガシが誕生する。
中国に渡れば愛人28号😂
それでも、
幸せになれればいいけれど、、。
暗殺者の恋人の話を書いた。自分にはないモノを探してバンコクに出て来た人たち。
それは幼い時から渇望したカネである。
何ひとつ不自由がない富裕層にはわからない世界がそこには広がっていた。
2020年、11月17日、民主化を求める学生活動家と警察隊が衝突した。バリケードを挟み、発煙筒、催涙弾が飛び交い、放水車がデモ隊を襲う。
涙目になりそう
タイ・バンコクの国会議事堂前で17日起きた反政府デモ隊と警官隊や王室支持派との衝突で、救急当局は負傷者が55人に達したことを明らかにした。このうち6人は銃撃を受けていたという。プラユット政権の退陣などを求める反政府集会が7月中旬に再燃して以降、最悪の事態となった。
この原稿は「バンコク 永遠に閉じ込められた愛」の序です。
わずか5-6編を書いて、ヤンゴンへ行くことになりました。
完成するかどうか
でも、人々が知らない方法でこの本は生き続けます。
歴史を生き抜くために、わたしはある方法を思いついたのです
バンコクで最も目立つ場所、そこのビルは再開発のため100年以内に取り壊されます。そこから現れる不思議な形のタイムカプセル
英語、タイ語、日本語で書かれた、、
hieroglyph
わたしはただの経済記者ですが、ひょんな事から千人規模のミャンマー人を救うことに成功しました。
失敗して倒される。起き上がっても目前で20才の青年たちが次々に殺される。
チン州の若い女性はレイプされる。
乳児は見殺しに。
女性教員は軍の教育指導介入に橋から投身自殺、青年たちは拷問の果てに殺され続ける。
国際NGOの救援を呼ぶも国軍兵士が道路を遮断。食糧さえ国軍に奪取される。
救援に何度も失敗して子供の死の記事を泣きながら書いている。
それでも立ち上がっていたら、別の次元の口が開いていたのです。
その情報が、わたしが探し求めていた答えでした。
それがミャンマーの未来を塗り替える、、
このバンコクの話はわたしがミャンマーから帰ったところから突如、始まります。
これでこの話が永遠に生き続ける事をわかっていただけました?
これは小説でもエッセイでもないドキュメンタリーです。
国際編成チーム
リサーチャー タイ人、記者 日本人、写真 日本人、タイ人。音楽 中国人、デザイン 英国人 エディター日本人 英国人
2022年1月25日、バンコク西、シーロム・サラデーン地区にあるパッポン通り。
キングキャッスル・グループが全店再開を果たした!
この物語は世紀を超えて走り続けてます
バンコク駐在記者。ミャンマーのヤンゴンからチン州ミンダットに転戦。ウィルス戦争取材に呼び戻され、世界最前線で戦うためコロナウィルスの突然変異に迫る😂もし、頂上に立てなかったら、日本は中国から千年の隷属国家に貶められます、戦いのすべてはコロナ感染で苦しむ人々のために❗️