障害の受容と喪失感と絶望と
皆さんこんにちは~。久しぶりに昔のゲーム機を引っ張り出して遊んでいるようちゃんです。めっちゃ懐かしい気分になりますね~♪
さて、今回のテーマは「障害」です。今回の話は少し暗くなっちゃいますが、是非聞いてほしいお話なのでよろしくお願いいたしますm(__)m
「なぁ、ちょっとだけでええんや。そうそう、少しだけ聞くだけやで。なにもせん、なにもせんから・・・な、話の先っぽだけ・・・・・」
さて、茶番はこれくらいにしてお話に・・・・
よくようちゃんのnoteに登場する父は30代で失明している。そう、いわゆる「後天性障害」である。30代までは特に大きな病気もなく健康体であった。
高校時代は剣道を行い地元で活躍し、高校卒業後は自動車整備士の資格を取ってトヨタの整備工場で働いていた。
また、趣味も充実しており、ゴルフやスキー、はやりそうなものは一通り手を出し、免許も運転免許証の欄がすべて埋まるくらい資格マニアでもあった。
父は負けん気が強く、トヨタの整備工場で働いていたが、上と折り合いがつかず独立して会社を立ち上げることになった。友人と一緒に石川県金沢市に現在もあるとある整備工場を立ち上げた。もちろん社長である。偉いのである。もし、今も続いていたら私は社長のボンボンだったのに。
仕事も趣味も充実した30代。ある意味勝ち組の一員だった父の30代。しかし、悲劇は突然現れたのである。
始めの異変は友人とスキーに行った後、やたら目が痛く、まぶしくて目が明けられなくなったことから始まった。眼科にいったら「雪眼炎」という診断だった。まあ、簡単に言うと目のやけどだ。
その時は大したことがないと思っていたのだが、一向に視力は回復せず、それどころか仕事が困難になってしまうくらい視力が低下してきたのである。このままじゃ仕事ができないということで、当時眼科の中でトップクラスであった「金沢大学附属病院」を受診することになった。
そして、先生に言われた一言は・・・・・
先生「ベーチェット病ですね。残念ですがかなり進行しており現在の医学では対処できません。このままだと確実に失明します。」
・・・・・失明します。
父はこの時の話の内容はほとんど頭に入ってこず、「失明します」という言葉自体がすごく頭に残ったという。そして現実味がなかったといっていた。
そりゃ、そうだろう。明日から失明します。なんて言われた日には私も絶望する。いや、だれもが絶望するだろう。
父はその時は泣けなかった。しかし、一緒に行った父の母は泣いた。どうしようもないが、泣いた。父の代わりのように泣いたのである。
そこからは父の人格が入れ替わったように暴力的になったという。息子の私が言うのも変だが、父はすごく温和な性格をしている。よほどのことがない限り怒らない。しかし、失明するとわかった時は荒れに荒れたのである。
怒り・絶望・混乱・悲しみ・悔しさ・申し訳なさ、当時はいろいろな感情がぐるぐると回っていたという。母にもかなりつらくあたったという。
父の家族はとても多く、兄弟7人位いた。そしてみんな健康体であった。それが父だけ失明してしまうということもあり、
父「かぁちゃん、なんで俺を生んだんや。なんで目が悪くなるのをわかって生んだんや。そんなんやったら生まんでほしかった。」
そんなことを言って母を責めたという。そして・・・・・
父は海にいた。
何も考えられなかった。
そしてそのまま、服を着たまま海に入っていった・・・・・
母「あかん、死んだらあかん!!!」
母が全速力で駆けつけて、体が濡れるも構わずに海に入って父を抱きしめた。
母「かぁちゃんがなんとかしたる。絶対いいがにしたる。(いいように)」
そのとき、父は泣けたという。そして母と一緒に泣いた。
この時、母が(私からしたらおばあちゃんが)止めてくれなかったら私はこの世に存在していなかっただろう。そしてこんなnoteを書いていなかっただろう。
父は仕事をやめて盲学校に入った。そして・・・・