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「人生について」小林秀雄 について
難解な本を読むのが癖になっています。
小林秀雄氏の文章が難解な事は、ご自身が「読書について」(中央公論新社)に書かれている通りである。
しかし、私は小林秀雄の文章が好きだ。さっぱりとしていて一辺倒でないところがいい。
(途中解説として書いているのは、私の独断と偏見と浅学の入り混じった主観ですので、各々の読み方で進めた方がいいのであって、参考程度に見ていただきたい)
P9. 私の人生観
「私の人生観」の講演で、講演では本当に言いたいことを言い表すことが出来ないという結論を、私の人生観をから割出した・・云々。
P10.
職業の秘密
P11~19.
観とは
P20.
自然観とは真如観(かくの如く在る)
P21.
西行曰く、自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異なっている。月も花も郭公も雪も凡そ相ある所、皆是虚妄ならざるはない。分かり切った事である。であるから、花を詠んでも花と思った事もなければ、月を詠ずるが月と思った事はない、『虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると云えども更に蹤跡なし』・・
皆是虚妄ならざるはない。(解説:皆、虚妄である)
ー 蹤跡という言葉を知り沁みました。
P22.
太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦々しく思い、おごれる人も久しからず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久しからず、と書いたこの逸話は次の様な事を語っています・・云々。
ー ここ分かり辛い。。因果の理法。。
(解説:おごっている、おごっていないというのは人の心の在り様である。諸行無常とは因果の理法である。常無しとは又、心なしという事であって、因果の理法を人間の心が受け入れる事は誠に難しい。)
P23.
自然の世界と価値の世界との分離
縁起法
諸法無我
P24~25.
ー 今書きながら、
これは、分かっている事を一々解説するという、うざい事をしているのではと言う気がしてきている。
しかも、誰が読みたがるのだろうか。読書とは一対一で出来る娯楽であって、楽しいものじゃないか。受け取り方は千差万別。得手勝手な解説は必要ないよなー。でももう書き始めてしまったし、終わりまで書いてみようかな。。
こういう意味の話がある。
ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して回答を迫ったところが、釈迦はそういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当っているのに、医者に毒矢の本質について解答を求めるようなものだ。どんな解答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えるだけである、そう答えた。
これが、いわゆる如来の不記
不記=形而上学の不可能
P26~27.
解説:
因果の理法=因果律(という真理も悟性の産物)
縁起の法=無我の法(人間的な立場(主観)をなくす)
諸行無常=一切諸行苦
無常と苦とは同じ
存在の理解と価値の判断は、釈迦には同じ行為
P28.
西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、
芭蕉は、虚に居て実をおこなう、と言った
P29.
空観=真如を得る道
※ この記事は書いている途中です。
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