書評『計略のない頭はカボチャに似たり : 「ソ連流」脅しの交渉術 商談・会議・説得に勝つ』寺谷弘壬
学部時代、中国史の講義を受けていたとき、唐代がご専門の先生がこのようなことを言われた。
「中国史研究の際、小説を史料として用いることが多くあります。」
曲がりなりにも史学科の学生だった私は少しギョッとした。なぜなら、史料とされるのは公文書、書簡、日記といった当時の人々が書き残したものであって、百歩譲っても新聞記事くらいまでが史料の範囲だ、と思っていたからである。小説という作家の著した創造作品は、書き手の頭の中を文字にしたものであって、架空の世界の物語だ。史料とは対極の位置