基礎教養 1999年11月刊・別冊行動と文化第4号 所収 「常連客雑記」
はじめに
筆者は、東京都台東区日本堤にある珈琲屋カフェ・バッハの、日本語でいえば番頭にあたる。役割上この10 年ほどの間、店の歩み、客との関わり合いを少し意地悪に、斜めから観察してきた。
カフェ(または喫茶店)にとって「常連客」とは何だろうか。毎日顔をあわせていると考えもしないのだが、この冬その一人の突然の死に接したことから、改めて思いをめぐらすことになった。
三部構成にまとめてみたい。1章「店→客」2章「客→客」3章「客→店」という三角形が見えてくる。2章と3章に登場するM氏は同一人物で、3章では店側の人間として客M氏を、2章は音楽好き同志として友M氏を追悼した。そして、M氏を含む常連客がどうしてできてきたか、これまでの体験を思い起こすうちに1章ができた。
そこからおぼろげに浮かんできたものある。現在、日本の個人経営のカフェ(または喫茶店)には自然に「常連客」が生成されるととらえられがちだが、実は店と客の相互関係から構築されるものなのだ。明らかに当店バッハでは、店主マスターの意向によって構築してきたことがうかがえる。
「客に店を選ぶ権利かあるように、店にも客を選ぶ権利がある」という、欧米なら当たり前の言葉が、実際には何を意味し、どう機能するのか、いかに日本でそれを実現するのに困難を伴うか。その一端でもご理解いただければ幸いに思う。
1 「出入り禁止!」
「出入り禁止!」
カフェ・バッハの「常連客」なら1度や2度は言われた経験があるという。マスターは半ば冗談のつもりでも、売り言葉に買い言葉、「二度ときてやるもんか、こんな店!」と激昂して帰った者もいるそうだ。常連客は付き合いが長いだけに気心が知れ、客の側には甘えも出てくる。話しているうちに愚痴不平不満のオンパレードとなり、ついには聞いていられず「帰れ!」となる。
カフェ・バッハのマスターの常連客作りは、「何か急用があるの?」から始まる。お客さんは長っ尻を気にして立ち上がる場合が多い。そう声をかけられると、「特にないけど----コーヒー飲み終わったから帰る」とコイン望遠鏡みたいに考えた答えをする。そこで「ないんだったら、まだ帰らないでいいじゃない。コーヒーごちそうするから」。マスターは、人懐っこいが妙に押しが強いので、腰を浮かせた客もペタリとまた座り込む。これで釣られた常連客がどれほどいることか。意地悪い見方をすれば、バッハは意図的に慎み深い常連客を獲得・育成してきたといえる。ほとんどの常連客は、店が選んできたのだ。
だから、店が混んできたら「どいて」と席を空けさせ、忙しいときは「今日は忙しい」とすげない。常連客からすれば「帰るな」といわれたり「帰れ」といわれたりで翻弄されるが、そこは慎み深い客を選んできただけに、店のいうことをきいてくれる。ベタベタせず、多少突き放した扱いが魅力ともなる。ところがそんな常連客も、いつしかいうことを聞かなくなるときがくる。店の都合で翻弄するな、という。特権があるかのように、ほかの客の迷惑を顧みない。これが度を超えて手に負えなくなったときは鶴の一声「帰れ! 出入り禁止!」
しかし、経営者なんて店の虜囚とも言える存在なのだから、考えてみれば適切な自己防衛ととれるかもしれない。店の、客のイメージができあがる前にそれを作る、常連客ができる前に常連客を作る。店舗経営に長けたバッハのマスターの、常に先手を打つ店作り、客作りの手法なのだ。
一般の喫茶店なら、常連客は客主導で発生する場合が多かろう。つまり、積極的に店に寄生する意図がある客層が、つけ込みやすい店を選び働きかける。これらの寄生客層は、店の快適性を食い尽くすため、当初は一見店に貢献するような素振りを繰り返す。店が十分感謝すると、それをまるで貸があるかのようにタテにとって、店のルールを破壊し始める。
この段階で店は断固として闘い、悪質な寄生客を排除しなければならない。しかし自らを店の虜囚と解釈する経営者の中には、ただ客を待つだけの閉鎖された空間に対する不安や寂しさから、いつも優しく声をかけてくれる看守の、どんな理不尽な要求にも応えてしまう場合が少なくない。
自家焙煎コーヒー店にありがちな陥穽は、コーヒーに詳しいいわゆる「通」の客の言動である。元来「通」は、自分のコーヒー遍歴を披露したい
だけの遊民と紙一重の輩である場合も多い。新米経営者の知らない「店」のことや「味」のことをいろいろと、助言し指導してくださる。これを「コーヒーに詳しいよい人」として扱うと、それ以外の不特定多数の客へのサービスが疎かになる。バッハのマスターはこう戒める。「そういうのは無視しなさい。どうせ、どこかの店に行きにくくなって、話のできそうな店を探して来ているのだから。それより無垢のお客様をコーヒー好きに仕込むのが本来の仕事。」
「出入り禁止!」の一声は、自己防衛だけでなく、「牢名主」として一時同居している囚人仲間を保護する目的でもある。カフェ・バッハの場合、店のルールが守れないなら二度と来てもらわなくてよい、という姿勢を貫いてきた。それはルールを守って店に貢献してくれている、客のすべてをこそ大事にすべきだと考えるからにほかならない。
特定少数の客と頻繁に顔をあわせるうち、その顔しか目に入らず情が移り視野が狭くなるのは当たり前のこと。しかし、すべての近しい男女が不倫するわけではないように、一線を越えない節度が必要だ。一線を越えた経営者は、個人的に親しくなった常連客と、特に親密でないその他の客との間にサービスの格差を作る。本来、多かれ少なかれできてしまう格差だが、境界を個人的感情的に傾けすぎると、経営からは遠ざかっていく。「代価をいただくなら、プロとして経営しなければ。個人の勝手を通すならそれは趣味でやっているのだから、代価をいただいてはいけない。」バッハのマスターの、後進へのアドバイスは厳しい。
さて、バッハの「出入り禁止!」になった客は、その後どうなるのだろうか。マスターいわく、地域密着型カフェは地域に貢献しなければならず、したがって常連客は地域に根を張った者、その地域に責任を負った者を選ぶのが望ましい。それは多くの場合、土地家付き惣領である。故に少々言い争っても遠くに逃げられないので、また戻ってくるもの----。考えようによってはあきれる冷徹さではないか。
当の「出入り禁止!」組はどう感じたのか。実際鎖につながれた惣領たちは結局、ほとぼりを覚まして常連復帰する。だが時間が経つにつれて、それがよかったと振り返る者もいる。「出入り禁止になったおかげで、仕事や子育てに集中できたのかもしれない。だからかえってありがたい時期だったと思っている。改めて自分の仕事や住んでいる地域について考え、行動できた。バッハでヌクヌクしてたら、反対に口だけの人間になっていたかもしれない。今思えば、マスターから「気が利かないシティボーイは口だけ達者で何もできない」とかいわれて腹を立てていたと思う。」
諸事好意的に解釈してくれる常連客にとって、「出入り禁止!」は「行動せよ!」と聞こえていたらしい。店としては感謝感謝だけれど、店というものの活動周期の中では「出入り禁止!」期間は1年から3年は当たり前で、前述の好意的回想を得るに到るには、さらに10 年、15 年の熟成が必要な例があることも付け加えねばなるまい。
(補記)
辺見庸氏が朝日新聞に連載しているコラム「眼の探索」の中に「生成と構築」という章があった。日本は、誰がやるでもなく自然とそうなったという感覚が主流で、欧米は自分たちが築き上げたという感覚で国家や政治をと
らえている、という内容だったと記憶している。カフェ・バッハは日頃、客は育成するものと訴えてきた。以前の私なら、これを「啓蒙専制君主型」と意地悪く評した。が、やはりカフェはヨーロッパがモデルである限り、「生
成」より「構築」がふさわしいように思う。辺見氏は今を時めく人気作家だが、バッハに近い南千住にお住まいという。先日NHKで、エチオピアと南千
住を行き来する映像エッセイ「アフリカの光、日本の影」を見て親近感をもった。同じようにエチオピアに旅立ち、コーヒーの原点を20 年前に伝えたカフェが、となりの山谷にあることをご存じだったろうか。当店スタッフの証
言では、辺見氏はカフェ・バッハにも来店したことがあるらしい。だが、飲んだのはエチオピアではなかったという。
2 音楽は無慈悲な女王ー交錯する常連客
私のまわりには、在野の、あるいは自給自足の修道僧たちのような、真の音楽家がいる。
私のいう「真の音楽家」とは、自ら音楽を愛し、それを人に伝え、たゆまず音楽好きを増やすことにいそしむ「音楽の心」をもった人々だ。単に「心ある人」と古めかしい表現をしてもよい。自ら歌わず奏でずとも、音楽を伝えることのできる者たちだ。
音楽には、少なくとも発する側つまりパフォーマーと、受ける側オーディエンスが必要だ。欧米ならこれに、その「場」に降臨する神々しい存在を加えて三位一体と考えるかもしれないが、あいにく私はそこまで感じ取れる境地には至っていないので、触れないことにする。
しかし、音楽は、それを心に持つ人々を裕福とまでは行かなくとも、飢えない程度に支えられるものでなくてはなるまい。そのために音楽の場は経済効果を生み、正しく消費されてよい。
ここで採り上げるクラシック音楽の分野では、現実にはパフォーマーとオーディエンスの協調関係は育まれていない。未だ上意下達、隔絶している。
今年2月、卓越したオーディエンスの一人M氏が亡くなった。こよなく音楽を愛していた。遺されたCDも千や二千をくだるまい。見方によっては、孤独に聴くだけの暗いコレクターかもしれない。しかし私には、情熱をもって音楽に関わり、屈託なく自分の信仰を告白する勇気のある人と見えた。
告別式の間私の頭の中では、M氏の愛したバッハの「マタイ受難曲」の終幕の合唱曲「われら涙してひざまずき」がずっと響いていた。ただ受動的であったかもしれないけれど、そんなにも「音楽」を愛した故人に対する「音楽」の仕打ちの何と冷たいことか。音楽など、どれほど貢いでも何も応えてくれない「無慈悲な女王」ではないか。
私が出会った当初、M氏は毎週のようにCDを買ってきては、カフェ・バッハでコーヒーを飲み、ときに封を切って聞かせてくれた。それがあるときを境に、カメラを担いで撮影に出かけることの方が多くなった。
享年49歳、独身。実家で両親と暮らしていた。家業は弟に譲り、勤めに出ていた。不動産関係の仕事につき、バブル崩壊後はタクシー運転手に転身、その仕事の途中静かに亡くなった。もともと山歩きか好きだった。だから、それにカメラがプラスされて、魅力が音楽を上回ったのかとも思う。それに実家では、大音響で音楽を聴くことは許されず、時折カフェ・バッハの3階に設置されたステレオを鳴らし、うれしそうに聴き入っていた。
そんなM氏は「音楽」から、何一つ感謝されない。私の勝手な言い分とは承知の上だが、そんな人々がCDを買うオーディエンスの多くを占めるのも事実だ。それに比して、M氏の撮影した写真がほかの常連客に認められることで、彼は「写真」から感謝される。愛情を注げば感謝の念をもって振り向いてもらえる。カメラを持って歩くことは彼をいくらかでも豊にしたろう。ところが音楽には、それが欠けていた。片思いの空しさだけを感じたかもしれない。「音楽」は彼が思い続けるほど魅力的なものではなかったのだ。
私はもう一つの別な事件に遭遇して、実はずいぶん「音楽」に失望した。カフェ・バッハに出入りしていた常連客、S氏一家のことだ。その夫婦はバッハで出会い、結婚し、二女に恵まれた。長女は今年音楽大学に合格した。オーボエ奏者を目指すという。
私は3年前、高校合格のお祝いにCDを贈った。ソプラノの新久美氏とビオラ・ダ・ガンバの大橋敏成氏による「ルソン・ド・テネブル」というバロック時代の声楽作品だ。音楽の中に声楽の占める割合の多さと、キリスト教の影響を理解せず西洋音楽の世界を習得することは覚束ないと思った。そのCDは、音楽大学の研究室をホームグラウンドに製作された。多彩な活動を支える音楽家たちの積極性に敬服した。その姿勢を、若い音楽を志す人に学んでほしいと思った。
余計なおせっかいである。私は、彼女を小学生のころから知っているが、そこに音楽を愛する者同志という連帯意識みたいなものが働いたことも確かだ。感謝されたいと思って焼いたおせっかいでないといえば嘘になるが、私の一方的な連帯意識であったことは、今春の大学合格知らされることはなかったことで窺い知れる。
さて、これは私の世迷い言と片付けるとして、彼女が最初に使った楽器は、地元の真摯な音楽愛好家の一人K氏から貸与されたものだった。K氏も長年にわたるカフェ・バッハの大切な常連客の一人。カフェ・バッハと出会い、音楽に目覚め、オーボエに行き着いた。しかしオーボエの習得は、勤労青年にとって重荷にすぎた。結局入手した楽器はケースにしまい、仕事に専心した。K氏が明らかにそれを悔いていないことは、楽器を何のためらいもなS氏の長女に貸与したことで納得される。むしろ使われないままの楽器がいかに寂しいものか、K氏はよく知っていたのだろう。
ところがそれに対するS氏一家の対応は、あまりに一方通行的な「音楽は無慈悲な女王」の思いを深くさせるものだった。S氏の長女は、貸し与えられた楽器によってその才を伸ばすとともに、地元ジュニアオーケストラの中で頭角を現した。その楽器はオーケストラ備え付けのオーボエとは比較にならぬほどの名器だった。私は、一家あげてK氏に感謝するものと思った。しかし、実際にはジュニアオーケストラ公演への招待もなく、音楽大学合格の報告もなされなかった。後に親から新しいオーボ工を買い与えられたため、借りていた楽器をK氏に返却に行ったのが、最初で最後の挨拶となった。
K氏は、一家をよく知っているつもりで貸与を決めた。カフェ・バッハで出会い、相互保証には「常連客同志」という要素がいかばかりかは働いていたろう。日常の交際は多いといえないから、K氏にすればS氏一家は「バッハの常連客」であり、やはり音楽を愛する者という連帯意識から大事な楽器を気軽に貸与した、と想像できる。私は、それに対する若い音楽家の感謝は、「私の演奏を聞いてください」ではないかと思う。自分が未熟だとか恥ずかしいとかいうことでは済まされない。それが「音楽は無慈悲な女王」というだけだとしたら、悲しい。
M氏やK氏がないがしろにされていいはずはない。彼らのような真のオーディエンスを支え、また育ててこそ「音楽」を担う者といえるし、「音楽の場」か成立すると思う。そこにいくばくかの協力をしているカフェ・バッハと、それを支える従業員はいわば無名戦士だ。
「われら涙してひざまずき、墓の中のあなたに呼びかける。憩え安らかに、安らかに憩いたまえ」
(補記〕
文中「パフォーマー」と「オーディエンス」の使用は、現代にルネサンス声楽のマドリガルを復興させた立役者であるアントニー・ルーリー氏の著作「内なるオルフェウスの歌」の影響を受けた。この本は17世紀の音楽創造
の現場を、当時意外に浸透していた新プラトン主義や神秘思想を用いて解説している。いつかこの本をカフェやコーヒーに対照させて、じっくり考察してみたい。
さて本文は、私自身が音楽好きということもあり、やや感情的にすぎるかもしれない。登場する人物は皆よい人たちばかりと信じたいのだが、年月の積み重ねは「よい人」にも思わぬほころびを生じさせる。私自身には、「音楽」を「コーヒー」に読み替えて戒めとしたい。
3 ひとりの天才「客」の死----常連客の奇跡
何につけ店を営業する場合、経営者や従業員の人柄がものをいうのは今更いうまでもない。しかし、稀に客の中に店の繁盛を約束してくれる「生まれながらのよい客」といいたくなるような好人物が現れる。カフェ・バッハ改名開店以前からの30年来の常連客M氏がそう。「客」というものにも才能の有る無しがあるとは! その人物がカウンターに座ると、いつの間にか向こう三軒両隣の客同志か仲良くおしゃべりを始め、シングル客をグループ化してしまう。果てはまるで店の営業マンとばかり、忙しいマスターに代わって周囲の客と対話までしてくださる。見ず知らずの隣の客が突然話しかけてくるわけだから、相手はさぞや驚くだろうが、そこが天才の天才たる所以で、嫌な顔をされたためしがない。店の雰囲気やサービス姿勢にも助けられているとはいえ、やはり「お客の天才」としかいいようかない。
職人気質の自家焙煎コーヒー店で、「店」対「客」がどうしても1対1の真剣勝負になってしまいがちなカウンターにあって、その人物は不要な緊張感をほぐす役割を果たしてくれた。常連の輪が徐々に広がり、常連同志が他意のない安全な関係を確認するにつれて、何人もの「本当にいい方ですね」という言葉で、その天賦の才は証明された。
その天才が、去る2月13 日亡くなった。4月の誕生日で50 歳になろうという矢先。職場で急に気分が悪くなり、そのまま帰らぬ人となった。山が好き、スキーが好き、カメラが好き、そして何よりクラシック音楽か好きだった。特にバッハとフルトベングラーとフォリアがお気に入りだった。
決して今はやりの顔立ちではなく、体型は典型的日本人代表といった風。しかし「いい人」はこれ、「笑顔」とはこれ、という見本のような素晴らしい人。
カフェ・バッハには毎日通ってきた。亡くなる前夜もコーヒーを飲み、店員一同、その姿がよもや最後になるとは予想だにせずサービスした。そして翌金曜日バッハ定休日に急逝。土日が通夜と告別式に当てられた。
しかし、悲しいかな「店と客」という関係は、残された家族にとって親戚縁者、友人知人のリストにはないらしく、バッハに連絡はなかった。通夜の後、偶然M氏宅の前を通りかかった別の常連が発見、辛くも翌日の告別式には見送ることかできた。突然の出来事に知らない人も多く、もちろん常連客仲間もごく限られた人にしか通知できなかった。折しも日曜日は朝からミゾレ混じりの雪が舞い、辛く苦い涙雪の中、読経を聞きながら「お客の天才」が亡くなった悲しさと同時に、毎日顔を合わせる身近な人でありながら、それを危うく知らずに過ごしてしまうところだった人間関係の不確かさへの悲しさがよぎった。
ところが驚くべきことに、亡くなった後でも「お客の天才」は発揮された。何と常連客仲間の一人が故人を納める棺をつくった棺桶屋だった。その棺桶屋氏、気を利かせて葬儀屋へ頼み込み、霊柩車が生前故人が大好きだったコーヒー屋の前を通るよう計らってくださった。
何も知らない家族は、なぜか遠回りして斎場へ向かう霊柩車を訝しく思った。ちょうどカフェ・バッハの前にさしかかったとき、車は少しスピードを緩めた。その時、家族は見た。店の前に整列し、故人の好きだったキューバコーヒーを捧げ見送る店員たちの姿を。
故人を10 代のころから知っているバッハのママさんは、仕事で告別式には出られず、故人の愛したバッハのカンタータを鳴らしなから、店の3階のベランダから最後の別れを告げた。
30余年店を続けると、店で知り合い結婚した人もあれば、あるときばったり来なくなった常連の死を突然知らされることもある。とはいえ、こんな「お客の天才」を失うにはあまりに短い年月ではあるまいか! 故人の拡げた常連の輪は、山歩き、音楽、カメラと、それぞれの分野で継承者が育っているけれど、人と人を出会わせ楽しくさせる天才は、おいそれと継承できる代物ではない。私生活では世を拗ねて何の不思議もないほどの苦労人だったというが、店では明る<優しく楽しく、快活でフェアな精神を持ち続けた人物だった。
告別式の帰り道、故人を音楽好きに導いた張本人でもあるカフェ・バッハのマスターは呟いた。
「一緒にヨーロッパ旅行にいきたかったなあ」
(補記)
文中、いかにも脚色めいていると思われそうな箇所があるかもしれない。斎場へ向かうところの描写である。実は葬儀の後日、私の家に不幸な喪主である故人の老父が訪ねてきた。故人の友人知人リストに私の名前はなく、香典袋には名字と住所だけしか記されておらず、何物か確認するために訪ねてこられたのである。私がバッハの店員である旨を告げると、斎場へ向かうとき遠回りしてバッハ前を通った話をされた。それで私が、なぜ遠回りをしたのか種明かしをすることになった。おかげで斎場へ向かう車中での家族の驚きを聞くことができた。ここでも故人の「天才」が発揮された。私は一面識もなかった故人の父と、はからずも引き合わされてしまったのである。