基礎教養 「自家焙煎コーヒーを語る」 (「珈琲を語る」行動と文化第9号1986年1月の補足)
「吉祥寺コーヒー戦争」
Q ずいぶん以前にお話をうかがいし、その後講演などを拝聴しました。自家焙煎コーヒーが日本で展開した経緯について、お考えをきかせてください。
A コーヒーが日本国内で計画栽培できるものでなく、すべて輸入に依拠している以上、輸出を含め日本の貿易と深く関わりがあります。貿易は輸入と輸出が表裏一体です。「コーヒーを輸入する」行為の裏か表に必ず「輸出」があります。
鎖国が解けた日本は、急激な近代化、工業化を目指します。輸出するためには、輸入もしなければ貿易は成立しません。その過程でコーヒーは日本の重要な輸入産品になります。輸入したコーヒーをどう処理するか、その課題の回答のひとつが、西洋文化の息吹としての「カフェ」業態の輸入でした。もちろん同時期、並行して西洋文化の象徴であるカフェを輸入し、それに従ってコーヒーが注目されたことも確かです。
この際、後先は重要ではありません。貿易競争に参入した新参日本にとって、輸出品を生産する態勢作りと、輸入品を消費する態勢づくりもまた、表裏一体でした。
Q 「近代世界システム」と呼ばれる近代世界史観を参考されたようですね。それ以前は「生活史」などといわれた。川北稔著「ヨーロッパと近代社会」によると----近代の世界は一つのまとまったシステム(構造体)をなしているので、歴史は「国」を単位として動くのではない。すべての国の動向は、「一体としての世界」つまり世界システムの動きの一部でしかない。(中略)「イギリスは工業化されたが、インドはされなかった」のでなく、「イギリスが工業化したために、その影響を受けたインドは、容易に工業化できなくなった」となります。その伝で、日本の自家焙煎コーヒーを語るとどうなるのでしょう。
A ヨーロッパの貿易大国にとって、江戸時代後期の日本は、アヘン戦争前後の中国にかわる代替貿易地でした。日本の茶、陶磁器、絹織物を輸出しました。
また、同じころ九州地方を中心に資本家社会を学ぶ藩があらわれます。たとえば島津藩は帆布をマニファクチュアでつくる試みをしました。ところが国内需要の1年分がわずか1ヵ月でできたため、当時は慌てて止めることになりました。
これらの試みは明治維新により国家規模で開花することになります。
明治政府のスローガンは「脱亜入欧」「殖産興業」でした。
このスローガンのもと、大資本家の育成、農村犠牲の工業化が進みます。特に封建社会が継続していた農村はいじめられました。
有名な「秩父事件」(1884年)は、「輸出品を生産する態勢作り」の好例でしょう。小規模な生産者の集まりから、国家による絹織物の収奪的経済構造取得でした。絹織物は日本の重要な輸出品になったのです。
これは続く時代に、東北の女性を中心に「女工哀史」へと発展します。
農村は、江戸時代の厳しい時期ですら五公五民だったものが、六公四民になり、食えない次男三男は兵隊へという構造ができました。これが「富国強兵」の現実でした。
そうした背景のもと日本は、日清戦争(1894~95)を起こします。端的にいえば日清戦争は、「国際通貨獲得戦争(ポンド獲得)」でした。日本は工業化への道を歩みます。八幡製鉄所(1901年)が建設され、絹織物輸出の利益で鉱物資源の輸入が始まります。同様に、日露戦争(1904~05)では賠償として銀を獲得します。こうした路線は、ついには日中戦争(1931~45)へ辿り着きます。
Q 前掲「ヨーロッパと近代社会」によると----近代の世界システムはいわゆる大航海時代の後半に、西ヨーロッパ諸国を「中核」とし、ラテンアメリカや東ヨーロッパを「周辺」として成立した。(中略)ロシア史上、西ヨーロッパの文化を取り入れたとされるピョートル大帝の時代は、世界システム論からいえば、ロシアがこのシステムに組み込まれたことを意味するにすぎない。わが国の開国・維新もまた同じである。中国の景徳鎮の代替地として北九州の陶磁器が注目され、また日本からヨーロッパへ渡る陶磁器の輸送クッションとして、図らずも浮世絵が運ばれたということです。
A 日本のコーヒー輸入は、貿易初期の手段として始まります。絹織物の輸出先は、当時の欧米列強の植民地であり、そこの支配層が買い手です。それらの植民地は同時にコーヒー生産国と重なります。帰り船にコーヒーを買ってくることは容易でした。コーヒーは長時間の船輸送で傷まず、日本国内で加工販売すれば、それによってさらに利益が得られます。日本は300年の鎖国時代をへて、当時としては稀な人口を有していました。
コーヒーという「茶」を貿易の一手段として輸入した日本は、ヨーロッパが育んだ素晴らしい味、文化的背景、健康食品としての資質を伝えられませんでした。コーヒーに関しては、「文化」と「経済」が分裂して輸入されたといえます。
そもそも農業生産物は工業生産物と違って、いくら資本を投入しても一定の収益しか上がらないものです。つまり「拡大再生産」の不得手なものです。植民地の拡大を伴うものでした。それらを活用したカフェの文化は、ヨーロッパにおいては、市井の民衆の生活そのものであり、地域社会に密着したものでした。カフェの文化が発展するほど、必要とする輸入農産物も需要を増しました。ヨーロッパにおいてもカフェとコーヒーは、生産地と消費地が完全に乖離していました。それでもヨーロッパは17世紀以降、文化と経済を一体のものとして伝統に育ててきました。
江戸末期から明治期の日本は、隣国中国の戦禍を対岸の火事として体験し、欧米列強の仲間入りを望み、激烈なスピードで資本家社会を取りこみました。短時間で大変な成果を得ましたが、失うものも多かった。一般の人々に「自然観の欠落」「世界観の歪み」「人間観の喪失」を招きました。明治以降の日本は正常な判断力を失ったといえます。人間の豊かさが、実体と手段に分裂するのです。「豊かさ=手段」の社会は、豊かさの中の心の貧困を生むことになりました。
Q 山崎朋子著「サンダカン八番娼館」を読むと、マレーシアではゴム栽培以前はコーヒー栽培が盛んで、「からゆきさん」は、その転換期にあたることがわかりますね。
A 太平洋戦争後の日本は、アメリカ合衆国の傘下で取り急ぎの平和を得ます。しかし、実際には民主主義の空洞化、「脱亜入欧」「殖産興業」の再構築が準備されるのです。戦後「ベビーブーム」という人口増加もそれに拍車をかけます。戦後いわゆる先進国で極端な人口増加をしたのは日本のみです。特に戦争に関わった国々は人口増が戦争の原因であることを認識し少子化傾向にありました。
日本ではドイツやイタリアのような徹底した本土決戦は回避されます。結果として、工業生産国としての元手を残しました。戦後日本は、いち早く工業国として再生します。原材料を輸入し、それを製品化して輸出するという加工貿易によって極端な進展を見せます。
しかしその内実は、工業生産物の製造や輸出が内外に自然破壊を促し公害を生みます。そして、輸出の対価として農業生産物輸入を増加させ、国内農業を変質させ、圧迫します。その輸入農産物は、やはり国内で加工され、人口増加した戦後日本の消費者に販売されます。現在、日本人の繊細で豊かな味覚は失われ、地域社会は崩壊したといわれますが、やはり急激な貿易大国化の影響を感じずにはおれません。
戦後日本の経済は、工業生産物の輸出販売、輸入農産物の国内への加工販売によって、常に利益を生み出すという二重構造を構築します。この経済の二重構造化が「奇跡の復興」なのです。
と同時に、GHQの占領軍政策は中央集権化させ、その援助物資(小麦粉、脱脂粉乳、コーンなど)は資本家の食物分野への進出を促します。もともと敗戦国に対する軍事介入後の占領政策は、継続して言語や食生活に対して介入を推し進めるものです。
戦後日本には、未曾有の無国籍食品や加工食品が氾濫します。
農協は本来の成立を忘れ農村の地域社会を壊します。
小麦の輸入と期同じくして、パン食も推奨され、「パンは体にいい食べ物」といわれます。ほかにも輸入小麦によってイントタントメンが盛んに売られます。
マスコミから産科医までが協力のもと粉ミルクの優良性が唱えられ、ついには森永ヒ素ミルク事件を招く流れを作ります。
ここでの論旨は、パンや粉ミルクを非難することではありません。むしろ、あまりに無判断な受容に驚いているのです。
すべて「もの」は、ファッション化、カタログ化、CM化されます。そのどれかにひっかかっているものが売れる商品と規定されます。
日本では、インスタント食品は無抵抗で、むしろ歓迎されて家庭内へ入りこみます。戦後30年間で日本の穀物自給率はわずか30%になり、日本は風土、栽培に適した種を失い、技術と判断力を失っていきます。
そんな中で「コーヒーが飲めれば大人の仲間入り」を宣伝文句にコーヒーの飲用促進もなされます。そこでは明治から連綿と続く「手段」としてのコーヒーが、正しい品質を覆い隠したまま消費されていきます。
Q 日本の敗戦は、朝鮮戦争以降の時代の流れの中で役割が考慮されていた。戦後の民主主義の受容は思想と政策に分裂していたと思います。
無自覚に普及したり規制したりせず、もっと検証する態度行動が必要だったのですね。食品に対する思い込みの先行は、最近になっても続いています。(加熱殺菌によって消毒できるという一作業員の思い込みが食中毒事件などを起こしています) もともと必要性が弱いものの、意図的な普及による受容であっても、短絡的に拒否するのでなくて、よりよく受容する姿勢が大切ということですね。それで適正な「品質」を公開し、消費者を説得し、「ヨーロッパがコーヒーを飲む文化」「カフェの伝統が継続している文化」という本質的問いに答える発信をされたのですね。
A 「手段」としてのコーヒーは、その味も手段が規定します。
ヨーロッパに比べ技術、伝統などの点でコーヒー低開発国であった明治後期の日本に、コーヒー産出国がコーヒー普及のため、ストック(売れ残りの古い生豆)を特別低価格で輸出します。またブラジルが日本にコーヒー原料生豆のプレゼントをします。それは結果的にいえば「味の少ないコーヒーの普及」に貢献し、のちのアメリカンコーヒー流行への素地をつくったといえます。
そして「もはや戦後ではない」日本は、世界に類例のない喫茶店の乱立を招きます。
消費者が、善し悪しの判断できない新しい輸入食品であるのにも関わらず、コーヒーは公的指導、品質基準、商品管理基準、調理・料理基準は全くなしでした。つまり普及目的のために優遇されていたといえます。焙煎業者関連の私的喫茶学校(開店用で最大1月間、普通3日~1週間)がわずかにあるだけでした。その学校もコーヒーのことについては3時限程度教えるという不十分さでした。
喫茶店の乱立は、元来食習慣のない日本に、とにかくコーヒーを飲ませ普及させる目的のために、金融的法的にも優遇され半ば計画的に進みました。(当時の金融機関から喫茶店をやるなら有望ですと暗黙のうちに優遇された例を聞いたことがあります)その一方では、製品としてのコーヒーの一般消費者への普及指導や情報公開はほとんどありませんでした。製造者が実体を知らせないから、消費者へも楽しみ方が伝わらず、結局は販売の方法を狭め、価格競争が支配する業態になっていきます。
喫茶店は誰にでも簡単にできて儲かるカッコイイ商売というイメージをつくりだしたのです。
1970年代から「でも・しか喫茶」が乱立し、ついにはオーバーブロウします。その中で一般の喫茶店からの差別化を狙ってコーヒー専門店が派生します。しかし、これもコーヒー専門店「モドキ」やチェーン店展開によるコーヒー専門店潰しの包囲を受けます。
戦後の20数年余で喫茶店が14万軒に膨れ上がります。それは粗悪コーヒー乱売の時代でもありました。それでは、ヨーロッパで育まれた文学カフェ、文学サロンに代表される地域社会に根差したカルチャーセンター的カフェは育ちません。できたのは、ただ劣悪なコーヒーの販売と欧米の型だけまねた「ナウイ」空っぽのファッション・カフェでした。それがいわゆる日本型喫茶店なのでしょう。この状況のもと日本は、年間約30万トンのコーヒー消費大国になりました。
Q 経済性優先の例は、コーヒー原料生豆の取引きがすべてキロ単位の重さで行われているため、「いかに重さの目減りを防ぐか」が課題ですね。ハンドピックはもとより、焙煎度合が進むと軽くなります。浅煎りほど目減りしません。経済性優先の立場ではどうしても浅煎りになりやすい。コーヒーの味が焙煎度合で決まるなら、経済性が味を規定していますね。
「でも・しか」は「喫茶店でもやるか」「喫茶店しかできない」からとられた言葉です。業態が定まらず「水商売」に分類されました。技術的なプロ意識が弱く、喫茶店は後年コンビニ、ファミレスに駆逐されていきます。ベンダーの分野は、コーヒー以外から参入した他業種にシェアを占められます。一度組み込まれた「世界システム」によって輸入量増は止まらない。
A 1985年ころ、喫茶店は減少しています。
喫茶店は日本国内のコーヒー消費増進と普及のための「手段」として使われたのです。その意味で「喫茶店の役割」は終了しました。喫茶店によって十分に普及されたコーヒーを、その供給サイドが、今度は喫茶店から取り上げることを開始したのです。
喫茶店に対してコーヒー豆を提供していた大手ロースターは直営の豆売りチェーンを展開し、家庭用コーヒーを直販したり、系列のスーパーに卸します。そしてスーパーでは月数回の特売を催します。つまるところコーヒー豆のたたき売りです。その動きは家庭にとどまらず、オフィスや自動販売機にも拡大していきます。必然的に大方の喫茶店は、スーパーと同じ出所のコーヒー豆をスーパーより高い価格で売らなければなりません。それでは差別化はかないません。こうした大手の販売戦略に個人経営の地域喫茶店は太刀打ちできませんでした。
いつしか、喫茶店にとってコーヒーやコーヒー豆は売れない商品になっていきます。加えてコーヒーとは違う商品を主力に据えた業態不明の喫茶店が出没します。1981年ころ、ノーパン喫茶、カフェ・バー、ゲーム喫茶などが登場し、ブームを巻き起こします。
巷の喫茶店ではコーヒーにかわるものとしてフードメニューが幅を利かせていきます。いわゆるモーニングサービス合戦によってフードメニューを拡大させ、今度は加工食品(=レトルト食品、インスタント食品)冷凍食品、無国籍食品の販売と普及を、コーヒーに代わって担わされます。
こうした動きは、大資本の食分野取りこみの最終型としてファミリーレストランチェーン(1971年ころから台頭)が、喫茶店を飲み込むであろうこと予見するものです。外食普及役割としての喫茶店の有無は、出店成功地域と失敗地域を分けていきます。
ここに到って次々と地域喫茶店は競合に負け店を終い、輸入は拡大しているのに喫茶店のコーヒー使用量は年々30%ちかく減少します。
Q 1970年代のGF(のちのAGF)の参入は、当時日本のコーヒー市場を脅かすといわれました。その後80年代中ころドイツのチボーがジャスコと提携して上陸し「吉祥寺コーヒー戦争」がおきます。バブル崩壊後、さらに喫茶店の閉店が相次ぎ、見すかされたように空いた好立地にスターバックスが上陸。スターバックスの展開が拡大するにつれ焙煎豆の輸入が増加したが、これも「世界システム」の一環なのですか。
バブル景気は1988年ころから1992年ころまでといわれます。こうした大資本のお先棒を担ぐ結果になった「喫茶店」に対する反省の中から生まれたのが「自家焙煎コーヒー店」なのですか。
A ここで述べる「自家焙煎コーヒー店」は、自店でていねいに焙煎した新鮮コーヒーを扱い、原料チェックと品質管理を徹底し、地域社会と密着した販売営業を展開するものです。小資本の自営業者は大資本にはできないことをていねいに積み上げて対抗します。というより、はなから同じ土俵ではないのです。
1970年代後半から80年代、大資本は自家焙煎店対策を講じる必要に迫られます。たとえば原料生豆の供給を渋ったり、焙煎技術の公開とか指導にクレームをつけます。それでも自家焙煎店ブームは到来します。実際には焙煎しないディスプレイ焙煎機を置く店、焙煎していても規準に満たない内容のモドキまで登場します。
大資本の中には自家焙煎チェーンをつくるところまであらわれます。「全自動の手作りコーヒー」という冗談のようなものまでとびだします。廉価寿司チェーンが、コーヒーのチェーンを計画したりしました。
これらの現象は、大資本にとって「自家焙煎店」モドキを作るのは容易いことを示しています。広い意味でコーヒーを作ることにはかわりなく、同じ製品をもっているといえます。何が違うかというと、小資本ならではのていねいな手作りの部分です。
しかし、モドキで実際に提供されたのは従来と変わらぬ粗製コーヒーでした。自家焙煎店はていねいな手作りのコーヒーという差別化を得たのです。
とはいえ、自家焙煎がていねいな手作りを徹底するには、「小売り」に徹することが望まれます。卸しを含む大量販売は大資本の土俵です。缶コーヒーやインスタントコーヒーの分野まで含めた大資本と価格的に競合しようなどと考えるのは無謀でしょう。
ところで、ていねいな手作りのコーヒーが本当に差別化されるためには、同時期並行してコーヒーの正しい啓蒙が必要です。コーヒーは液体になってしまうと質的な違いが見えにくくなります。自家焙煎店は、その地域を食い物にするのでなく、地域カルチャーセンター機能をもって地域コミュニティに根ざし、地域とともに発展していく姿勢が要求されます。そこにこそ地域に密着した店作り本来の姿と意味があるのです。その中にあって「自家焙煎店」は、一般消費者に正しいコーヒーの知識を「ひとりひとり」ていねいに普及する意外道はありません。そこに「喫茶店」時代ではなし得なかったヨーロッパ文化の中の「カフェの役割」を実現するひとつの方法が示されると思います。
原料生豆の取引き単位は、商社レベルでは、1コンテナ60キロ×250袋=15トン。問屋では、60キロ袋を10袋=600キロ程度でも分けてもらえるようになった。その中で「小資本ならでは」の一例は「少量多品種」をどう実現するか。
「自家焙煎」も消費者に正しく理解をえられなければ、いつかはどれも「同じコーヒー」ではないかという枠に括られてしまう。消費者がいつまでも「ホット」「ブレンド」「いつもの」というなら旧来の喫茶店と変わらない。新しい時代になっても、エスプレッソやスペシャルティが、消費者が口に入れるレベルで品質を保証する名称ではないことを忘れてはならないでしょう。コーヒーの味と品質を伝えることは、同じことの繰り返しで省略はききません。
Q これからも、正しいよいコーヒーを飲ませてください。