ひとつ間違えると、聴き手の素直な感想が、すべて排除されてしまいそうです。
ジャケ・ド・ラ・ゲール (最近でも「エリザベト・ジャケ・ド・ラ・ゲール(作曲家ダカンの叔母)」のような紹介。道綱の母みたい) のソナタは流麗繊細で憂いを帯びたいかにも女流らしい----云々かんぬん。よく一緒に演奏しているテオやオーギュらの楽器に擦り傷がつきそうな、なんというかフローリッドな演奏と比べると、というくらいの意味です。
言葉で伝えるというのは、どのみち先入観にあふれたものになります。対話することで、ふたり以上の意見になり、個人の感想からすこし距離をおけるのでしょう。
女性が主人公のハードボイルドはたくさんありますが、概ね男性の描くものが多く、なにやら誰かに好まれることを求めています。先日アニメ版「ファブル」を鑑賞しました。こうした女性キャラクターを男性読者は望ましい荒唐無稽と見ているのでしょうか。また女性読者はいかにも男性が妄想しそうなキャラクターと感じているのでしょうか。
わたしが、はじめて驚かされた作品は、柴田よしき「RIKO女神の永遠」です。村野ミロ、コーデリア・グレイ、ビック・ウォシャウスキー、ケイ・スカーペッタではありませんでした。
横溝正史賞だったので選出され、かつ生き残ったように感じます。
削除できない爪痕のような横溝ミステリーの、わたしの感想では正統な末裔。女刑事主人公の3部作。その後女刑事、女探偵を流行らせたように思うのですが、ほかの主人公たちとは決定的な違いがあって、どうも、多くの人に触れられず、埋もれていきそうな気配を感じます。
読み手を選ばず不愉快にさせる、人の傷つけ方だと思います。誰かに好まれようという意識がないと思えるのです。
ソフィ・ド・バルドネーシュのバイオリンはコーデリア・グレイくらいかもしれません。
CD宣伝資料は、政争史のような宣伝文句です。マーケティングの結果、「影に追いやられ、後世から忘れられていた」「昔日のフランスの真相に迫る」ことになったようにも。
ソフィ(ヴァイオリン)リュシル(バス・ド・ヴィオール)ジュスタン(クラヴサン)ルイーズ(ヴァイオリン)マルタ(ヴィオラ)ハンナ(チェロ)たちの演奏。
αレーベル、こんなラインナップと並んでいて、魅力的です。ローカルな中華思想が好ましく思えます。ジャケ・ド・ラ・ゲールも路線にのっていると思います。
綴っていて、ふと思い出したザビーネ・マイヤー事件、42年前のこと。