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一般教養  説明なし「言うより早く」飲み干すコーヒー



3月のおわり、標本桜を見に靖国へ。
どうもクローンらしいことが判明したドラマ、ドクターホワイトが終了し、日本はクローンと縁がありますな、と。
金やガラス、白磁、不偏なものに憧れ、不老長寿を望み。
標本桜も、どこかに同じ大きさ同じ剪定の代わりの木が準備されているかもしれません。
ガラス張りのインド大使館の横から千鳥ヶ淵へ。
新築当時物議をかもしたイタリア文化会館が、いまでは生垣に使われるベニカナメモチみたいじゃありませんか。
そのまま赤坂のとらやで休憩しようとして、どうも時間がない、そこで予定通り表参道へ出て、茶酒金田中へ。
物々しいアプローチ。ビルの2階の広い窓からていねいにつくられた箱庭を眺めながら一服。
オリジナルのミルクプリンも物々しい何某豆腐と命名されています。なぜか伊藤園のお薄。
見事に男性はわたしだけでした。
ここ数日、コーヒーも様々にご恵贈いただき、どれも掛け値なく大変おいしいものばかり。
昨今これを「好みの問題」とばかり言っていられなくなりました。


先日とある事情から特別に頂戴した50杯分のドリップバッグが、あっという間に飲み干されます。
浅煎り、中煎り、中深煎り、深煎り、デカフェをそれぞれ10杯分ずつ。
いまお世話になっている仕事場の方々は、どなたも「好みでした」「美味しかった」など言いません。言葉でなく行動で、「言うより早く」飲んでしまうのです。
わたしは今まで、本当の意味で「お客様の現場」を知りませんでした。
この半年でその一端が知れました。

本当にきちんと出来上がったコーヒーなら、余計な説明などしなくても、あっという間になくなります。
緊張感の高い現場のそれぞれの分野の筋金入りが10人いたら、50杯は1週間ともちません。
そして、みなさん何もおっしゃいません。おそらく仕事の効率が少しよくなり、スタッフ間の意思の疎通が少し滑らかになり。
言葉の感謝は必要ありません。ゴミ箱に捨てられたドリップバッグの抽出ガラがたまるだけです。
この半年で、ゴミ箱のごみを施設内の集積場に運ぶのが非常に楽しいものになりました。
もちろん今も、もっと安いコーヒー、正直ひどいコーヒーも飲まれています。ペットボトルのコーヒーを飲みながら出勤する人もいます。
ですから、みなさんそんなに味覚が鋭く、味にうるさいというわけではありません。

むかし18世紀オーケストラを創設したブリュッヘンが初期の目標の一つとしてベートーベンのバイオリン協奏曲を掲げていました。
同曲を20回以上正規にオケと競演したバイオリニストなら、ガット弦を張って様式のあった弓を持たせ、後ろで18世紀オケが演奏していれば、それに合わせられるはずだ、と。アーノンクールが、誰にもわかりやすい演奏とは、高度に音楽の語法を会得した聴衆ばかりか、そうでなければ音楽そのものが幼稚化している状態といっていたことの反面を著わしているような話です。

普段安価で粗悪なコーヒーばかり飲んでいる人たちが、適正に作られたきちんとしたコーヒーを置いておけば、それを当たり前のようにして飲み、知らないうちにいつもより早いペースで飲みつくしてしまう、そして次にまた安価粗悪品が置かれて、ひとりか二人はコーヒーが飲みづらくなったと感じるが、別に飲まなくなるわけではない、そうした繰り返しが続き、その中のさらなるひとりがどうにも安価粗悪品は飲めなくなり、そのうちの「コーヒーが嫌いになった」と飲むのをやめてしまう、ある人は「体調が良くおいしいときだけ飲み、美味しくないときは飲まない」と、ある人は「なにが違うのかはっきりさせたい」とお金と時間を費やして自分が「飲める」ものを探し求める----人間の味覚は必ずしも、「悪貨が良貨を駆逐する」とはならないのかもしれません。

ネット動画で拝見したベズイデンホウトのベートーベンの第1から3番の協奏曲のメルボルン公演。古楽器で古典派以降の協奏曲を演奏するとこうならざるを得ない的なまとまりでなく、協奏曲というのはオペラのアリアを歌うプリマのよう的、良い意味みなが目立ちたがっているような演奏でした。シューベルトのピアノトリオを聴いたときも思いましたが、名曲がきちんと名曲に聞こえました。長く継続的にクラシックの名曲であった曲の長い年月の習慣的な厚化粧を落とす、といっていた古楽の活動が一種の踏絵のようになってしまい、これが素顔の名曲だからこれで納得しないといけないみたいに。わたしは不満だったのですが、不満を不満といってよいことがわかり、そうした聴き手を説得できる演奏がされるようになってきたのでしょう。喜んでいます。

どんな説明を聞いても納得できなければ、そう言っていいのです。
「好みにあわない」と言っていいし、「趣味があわない」と言っていい。
「生焼けだ」「渋い」「エグイ」「煙い」「胸焼けする」と言っていい。
なぜって、代金を払っていますから。
コーヒー1杯800円とっておいて、これは説明と違う味香りではないか、とお客として表現していけないはずがありません。
味がわからないと侮られ、技術的に不適切なものを飲まされるのは、やはり飲む側、お客がきちんと表現しないといけないと思います。
あなたはこれで本当に「ベリー」だと思いますか(わたしにはグレープフルーツの白いワタのよう、栄養価は高いらしいが苦渋で嫌い)、と訊ねて良いのです。わたしは時折コンビニで「カゴメ野菜生活100」シリーズを飲み「ベリー」「マンゴー」「アップル」と明快に表現できていると感じます。そうした記号としての「ベリー」とはずいぶん違うと感じます。まして、本物のフルーツとは全く違います。仮にあくまで「ベリー」を強調されたとしても、どんな「ベリー」を「ベリー」と表現しているのか類推の元になるベリーのレベルを疑って、さらなる質問をしてよいと思います。
もちろん、なんでも超高級品と比較しろとはいいません。
そこで「野菜生活100」シリーズです。「べリー」は「りんご、ぶどう、レモン、ブルーベリー、ラズベリー、クランベリー」で構成され、「マンゴー」は「りんご、レモン、マンゴー、パッションフルーツ、バナナ、アセロラ」で構成され、「アップル」は「りんご、レモン、もも、ぶどう、アセロラ、パインアップル」で、香りと酸みで上手にイメージを喚起しています。あえて言えば、それらで野菜のザラザラした感触や苦み渋みをマスクしているといえそうです。

自分の「お客」としての好みははっきり表現して良い。
ただ注意すべきは、きっと岡田センセのいうホワイト化を見据えたかたちで。
批判は当事者にはっきり伝えるのが得策らしい。
「イヤな人になる努力」を回避しつつ、代金の分は感想や評判が言えるように努力してみよう、と思います。


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