笑うバロック展(183) 古楽演奏史上最大のミステリー「リフキン事件」その4
リフキンのロ短調ミサ曲は、1981年末から1982年初にかけて録音され、1982年に発売されました。
バロック音楽にとって世界的な変動の時期だったようです。
1981年2月15日。カール・リヒターは滞在していたミュンヘンのホテル「フィア・ヤーレスツァイテン」431号室にて心臓麻痺により死去。フロントに「胸が苦しい」という電話がありその直後に死亡したという。リヒターは、ドイツ・アルヒーフより「マタイ受難曲(1958年)」「ミサ曲ロ短調(1961年)」を発売。1979年には「マタイ」の2度目の録音をしました。カンタータ全曲録音は頓挫し、アルヒーフは結局自力で全集を作れませんでした。
ネット上の書き込みによると「オリジナル楽器でのバッハ演奏が脚光を浴びるようになった理由のひとつが1981年2月15日のカール・リヒターの死であることは間違いない」。その後アルヒーフはガーディナーを起用して1985年「ミサ曲ロ短調」、1988年「マタイ受難曲」を世に問います。
リフキン事件のあおりとして、アルヒーフは2002年「マタイ受難曲」マクリーシュ盤を製作。そう読んでいくと、リフキン事件は一種の「真贋論争」の様相でしょうか。1982年リフキンは、リヒターの芸術家伝説を含むそれ以前の録音をすべて「贋作」とレッテルを貼る「権利をもつ」可能性がありました。
分野と地域で考えると、前述は「分野」。そして「地域」においては、次の出来事が。
1982年10月4日。グレン・グールドは、脳卒中によりトロント総合病院に緊急入院。9月27日のこと、その後容態は急速に悪化。10月4日、父親の判断により延命措置の停止が決断され、同日死亡。
リフキンのインタビューにでてくる----いっそのこと、「もう彼が何を望んでいたのかなんて、どうでもいい。バッハがどう演奏されてもいいじゃないか。ただ、私の好きに演奏させてくれ」と言ってしまう方が正直なのに----の正直者はグールドあたりを想定しているのかもしれません。グールドはユダヤ系に聞こえる名前をやめ、ホロビッツやバーンスタインと対立し、演奏会をやめることで「真贋」の埒外に逃げました。
リフキンはノンサッチ・レーベルで録音していました。そこは下記のメンバーが集うレーベルでした。
ジプシー・キングス
パット・メセニー
ビル・フリゼール
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
ユッスー・ンドゥール
ランディ・ニューマン
ライ・クーダー
ジョニ・ミッチェル
スティーヴ・ライヒ
ブライアン・ウィルソン
ジョン・ゾーン