バロック音楽の実演を聴く「新生メモリアルホールで」2011年5月
その昔、静寂の中で銀座線の出入りの音が響いたという、上野学園所有の石橋メモリアルホール。上野の山の下側にある、貴重な、画期的なホールでした。考えようによっては、下町にオーセンティックな西洋文化を伝える、本物の殿堂でした。クナイスのウイーン・ブロックフレーテ・アンサンブルも聴きました。25年くらい前に、初めてフランスのバロック音楽に触れました。リュリのアルミードの抜粋を聴きました。よく考えると、ダンスリーのアルフォンソ・エルサビオの頌歌も聴きましたし、オッテン率いるシンタグマムジクムのさよなら公演も。レッジャー指揮でブリテンの「カーリューリバー」も。旧東独側からの若い演奏家紹介で、アンチェ・ヴァイトワースも聴いたなあ。カークビーとルーリーの最良の時期のイギリスモノも。ディッキーのソロも、初めて本格的なツィンクの妙技に触れました。
日大が買ったカザルスとは好対照に新築し、復活し。大学は有名演奏家も抱え、コンサート開催も充実という感じでしょうか。辻井くんを抱えている学校になった、のですね。
とにかく感慨深いです。由緒正しいティールケのガンバを所有していたり、BWV998の自筆譜も持っています。曜日限定だったと思いますが、楽器資料室も新築校舎にはあります。
この大学には、いつ始まったのか古楽研究室なるものがあります。その研究室が主催のコンサートもあります。13日の金曜日は、「バッハとマレ」というテーマ。マレの第5巻から小ぶりにまとめた組曲。大学所蔵のBWV998をチェンバロ独奏で。ニ長調のガンバソナタの後で休憩。ト短調のソナタのあとマレの1巻か4巻の2台のガンバ用の組曲。立派なシャコンヌで締めくくられました。
地味な演目ゆえお客はまばら、20人30人くらいかしら。これらの曲目がガンバでなければならない、そんな説得力をどこまで持たせられていたか?
「君は構えも心得ている。君の演奏には感情もある。君の弓は軽やかではずむようだ。君の左手はリスのように跳び、弦の上をネズミのようにたくみに縫って進む。君の装飾法は創意工夫に富み、時に魅力的でもある。だが私が耳にしたのは音楽ではなかった。」「君は踊っている人の手の助けなら出来るだろう。役者たちが舞台で歌う時の伴奏も出来よう。それでかせぐことも出来よう。君は音楽に囲まれて生きるだろう。だが音楽家にはなれない。」「君は感じるための心を持っているかね?考えるための頭を持っているかね?音が、踊りのためでもなく、王の耳を楽しませるためでもないとしたら、一体何の役に立つか考えたことがあるかね?」「だが君の疲れた声に心を動かされた。私は君が技術を持っているからではなく君が苦しんでいるから、君を引き受けることにする。」
ここでいう、「苦しみ」「疲れた声」が人の心を動かすのでしょう。現在、上手に演奏できる人は、本当に増えました。しかし、常に自らに次なる苦しみ、疲れを課す者でないと、上手になった愉悦は伝わりにくいものです。ヨーロッパ在住、一時帰国の----うかつにも音楽に囲まれて生きる境涯の演奏家が増えて、その中で、なお感じる心と考える頭をもって、自分の音が何の役に立つか?常に自問自答しつつ、そして、それがガンバでなければならず、さらに、その人の演奏するガンバでなければならない理由を、音楽で伝えること----そうした困難さへの問いかけが、少し不十分だったように聴きました。その時間を共有するために、同じ場所に在るために、聴衆に努力を惜しませないだけの「問いかけ」が、十分だったかしら?そこまで思わせるほど、ある意味で上手な立派な演奏家と演奏でした。だからこそ、もう一声、もう一歩を望んでしまいます。
もちろん、翻ってわたしは、わたしの本業で、そうした「問いかけ」が十分か?と問われると恥ずかしくて穴があったら入りたくなります。
無責任な風評を並べたけれど、ここまで書いたら、あえてもう一言。チラシのセンス----?きちっとデザインした方がよいです。お金かかっても。もっとお客が来ればできる?って、来客増とどちらが先か?は「鶏と卵」です。あのチラシでは、知り合いに勧めるのが難しいです。それから、当日の解説を拒絶するプログラムもいかがなものかしら。同じ文言のコピーでいいから、しつこく書いてほしいです。研究室演奏会なのですから、過去のアーカイブがもっと活かされてもよいのでは、ないのでしょうか。