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「映画を超えても、いいですか」展

2013年10月25日、観てきました。82枚の映画ポスター。絵画と違って狭い空間で、お客も少なくて、でも映画はやはり大衆のものですから、仰々しくなくて、むしろ好感。

映画のポスターは決まったサイズの枠組みの中で工夫する、スクリーンという枠が決まっている映画そのものを表しています。

チェコのポスターと日本のポスター

巻頭いきなり「悪魔の発明」に感涙!!このポスター展の時代とそのものと同時代でした。でもゼマンの存在そのものが、世界の映画界から見て独特。並びにリプスキーの「レモネードジョー」。70年代はメンツェルが登場。未公開が多いです。
ロシア・アバンギャルドと日本のパルコの広告の中間のような、そしてシュールなのに温もりがあります。「ターミネーター」がよりロボットっぽい姿のポスターなのに、シュワちャんの将来を見越したようなユーモラスさ。

デザイナーたちは、映画の宣伝もするけれど、町中の景観の独自性を主張しつつ、デザイナーの感じた映画の特質や個性を切り取ってコラージュし、映像で推薦文を書いている風です。アメリカのボブ・ピークやソウル・バスも好きなのですが、チェコ勢は個々にして、かつ集団の個性を発揮しています。
チェコデザイナーが、相性があって、本編とのイメージが重なるものも。「ナック」のレスター、「昼顔」のブニュエルあたりは、お互いの近さを感じている風。反対にフェリーニには距離を感じている風です。ビスコンティなんてバカにしているみたい。ダジャレた「ピンクの豹」に意外な親近感。
今回クロード・ベリの「老人と子供」が、本編が観たくなるポスターでした。
「チェコはあくまでチェコである」といつも胸を張るチェコの人々が目に浮かびました。歴史を考えると決して幸せな国ではないのに、いつも自信満々!!そして何でもワハハハと笑い飛ばす、真に勇気ある人々!!尊敬!!

そういえば赤瀬川原平の活動も、誰が何と言おうが自分は自分だみたいな自信満々なもので、ユーモアがありました。トマソンは一種の文化財保護運動だったかしら。原平氏は、チェコの人々のような適切な自己評価と自己アピールと文化の保存ができていた、のでしょう。今の日本を見渡すと----いるかしらねえ。

2013年当時、漫棚ブログの紹介で東村アキコの自伝マンガ「かくかくしかじか」を読み、そこから著者が育った地方のスパルタ絵画教室、それとそこで活動するメジャーな評価を跳ね飛ばす在野の一画家を知り、検索進んで、東村アキコ原画展を開催した宮崎の高鍋町美術館の活動ブログを見つけて、まだまだ捨てたもんじゃない、と思ったものでした。

ブレッソンの中でも「やさしい女」は好きな作品です。ドストエフスキーがパリに行き、チェコに流れ着くと下のようなポスターになります。貞子の先を行くようなポスター。チェコの人たちは、「昼顔」のドヌーブには敬意を払って見えましたが、ブレッソンの見出したドミニク・サンダは恐く見えたのかしらねえ。チェコの人たちのユーモアから一番遠くにいて、一番恐い監督がブレッソン?もっとも「ブレッソン恐い」は「饅頭こわい」みたいなものなのかもしれません。

チェコの映画ポスターデザイナーは、どんなに苦しい時でも、ただでは苦しまないのです。
「映画を超えても、いいですか」、はい、あなた方のユーモアに免じてどんなことでも許します。わたしも、あなた方のような不屈のユーモアを学びたいものです。

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