コレクション30 変わらぬカフェイン糖分脂肪分と「黒いリボン」
小山愛子、西炯子に続く藤原嗚呼子(すごいペンネームですね)の「デザインノイロハ」。発表は2013年ころ。
わたしもよく使った道具で好感。マキネッタとかモカ・エキスプレス、直火式エスプレッソとかいう別名。ミルクと砂糖をたっぷり入れて----美味しいと思います。カフェイン、糖分、脂肪----これらの組み合わせて、遅い仕事をがんばり、朝早く起きたりは、いいのじゃないかしら。
好い作品でした。現代のデザイナーの仕事を垣間見せていただきました。
目が離せない女流作家の層、厚いなあ。男の作家の作品に食指が動きません。
小学生の頃、同級生が「ベルばら」を貸してくれました。結構スピーディな連載で単行本10巻完結。一気に読んだのを記憶しています。彼女たちは、ヨーロッパに行って花や星を描いていたところに、リアルに街や服を描き込み始めました。この時点でも、世界的に見てもこうした表現手段で、ここまでの物語を作り出すことは、他の国にはなかったと思います。メビウスは娘にナウシカと名付けたよう。アラン・ムーアが「フロム・ヘル」を描いたのは1999年くらい。様々な相違があり、同列で並べるのはおかしいのはわかりますが、日本では1970年代前半には、「ベルばら」「トーマ」みたいな作品を小中学生たちが読んでいました。1980年代前半は「花岡ちゃんの夏休み」もあったし、「いろはにこんぺいと」「あいつ」をリアルタイムで読みました。その頃には女流たちは、もはや日本のテロワールをしっかり描いていました。海外に取材に行き、花や星でなく物語で勝負し、70、80年代をまたいで「カリフォルニア物語」の舞台はほぼリアルタイムのニューヨーク。
「ブロンコ・ビリー」日本公開と同じ年に、「火の鳥2772」「地球へ」「がんばれタブチくん」。
実は「デザインノイロハ」を読みながら「傘寿まり子」と「アルテ」最新刊を読みました。高齢の女流作家の最後の冒険と、17世紀イタリアの女流画家の成長譚。10年後には、どんな作品でわたしたちを驚かせてくれるでしょう。
2019年5月、「長閑の庭」が完結。
最終巻はまあ予想通りほどほどメルヘン、過度にロマンチックにはせず。「年の差」モノゆえに、昔のように背景に花のフレームがあしらわれ。でも「年をとっても人は」やはり「花」があっても好いかな。
最終巻で女性側の家族の登場が、唐突な印象。しかしそれで、三谷幸喜の「君となら」を連想したり。あのばかばかしさがお気に入りで、その対岸の描き方が通読させたのでしょう、きっと。さりとて「愛を読む人」までいくには、何か日本の作家のテーマの選び方扱い方がなにか違う様子。先日アメリカの刑事ドラマ「クローサー」の6シーズンの一部「終わらない悪夢(原題は「生きる証」くらい)」を鑑賞。2010年頃製作。コソボ戦犯がテーマでした。日本のドラマでは「集団左遷」で地面師詐欺が登場してましたが。そうか、「長閑の庭」には読む人をハッとさせる教養が足りない、のだと。「傘寿まり子」の方が面白く感じてしまいます。
ふと、「長閑」の主人公たちは、そもそもマンガなんか読むのかしらと疑問が。バンドデシネはある程度評価されているよう。20年前ドイツ訪問の際、駅の売店にジャンプが平積みされているのを見て驚きましたが。
下のスクラップは、榊教授が告知を受けた後、ひとり自宅でコーヒーをいれるシーン。
いつの世もコーヒーについて、いろいろと取り沙汰されますが、やはり紅茶と違って「いれる」作業が、人間にとって何か効用をもたらす、そう感じます。自己を客観視し決断するのに役立つ飲み物と作法なんですね。
「黒い」は主人公のニックネーム。「リボン」は恋愛の比喩として、でてきました。「白いリボン」ほど意地悪くないけれど、思い付き。