CD聴取ノート・プレクラ編[2] グラウン2題

トリオ・レクレアシオン

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ルクレールの「音楽の慰め」からとったレクレアシオンというトリオグループのグラウン・アルバム。
名前の通りのレクレアシオンな演奏でした。
気晴らし、回復、再創造を「渡る」という意味です。
おおよそはプロイセンのアンナ・アマリア王女のマヌスクリプト・コレクションから選曲。
トリオは130曲。
2バイオリンのためのトリオを2曲両端に。間に、変わった編成のトリオ。ひとつは2バイオリン・トリオにガンバ(演奏は日本のサカイアツシ氏)を足したカルテット名のもの。グラウンの身近にいたガンバ・ビルトーゾのヘッセと共作したのではないかというもの。もうひとつは、ビオラと独奏チェンバロのためのトリオ。
チャールズ・バーニーのレポートの引用がありました。
「偉大なコンサートマスターは、偉大なオペラ作曲家の兄弟。当代きってのバイオリンの名人の一人で、作曲も一級」というようなもの。
複数の「時代を渡る」音楽家とでもいったらいいのでしょうか。以前のような過渡期のアダ花的扱いはしません。
タルティーニにから受け継いだ後期バロックのビルトーゾ弦スタイル(ベンダなどと後期バロックの高度なジャーマン・ビルトーゾ・スクールとも)、バッハに代表されるドイツバロックの対位法の作曲スタイル、プロイセンのギャラントな様式、センチメンタルで、疾風怒濤で。これらを折衷でもなく混在でもなく、自在に融合したオリジナル・ミュージカルリッチネス・オブ・アイデア、なんです。
まあそれで、「時代を跨ぐ」でなく、「時代を超える」でもなく、「時代を渡る」エポックのワンダーフォーゲルなスタイルと、まあいえばカッコいいですか。
それで、本来「様式」で書く「トリオ」が、逸脱すれすれにビルトーゾがぶつかりあうサスペンスを生んだ、という感じでしょうか。
しかし、フリードリヒ大王宮廷では溢れていた短調が、ハイドンのエステルハージ宮では絶滅危惧種に。いまから考えるとフリードリヒ宮廷の方が辺境でヤボとは、いえそうにありません。もっとも「啓蒙専制君主」というのだって、相当な矛盾といえなくもない。それを両立させる王様だった、というなら、まあ「イケテル」といってあげてもよいのでは。

下記の人たちがそうらしいです。
フリードリヒ2世:プロイセン王国国王
ヨーゼフ2世:オーストリア大公、神聖ローマ皇帝
マリア・テレジア:オーストリア女大公
エカチェリーナ2世:ロシア帝国女帝
マフムト2世:オスマン帝国皇帝

ウィキ検索によると「----啓蒙専制君主は「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出することに寄与したと理解できる----」と。ある人たち、ある世代はこの「上からの」が許せないかもしれません。「個の確立」による「下からの」である「べき」論でしょうか。何でもマキャベリチックに目的が達成できるなら何をしてもよい、とはわたしも疑問に思うものの、人間は同時に生物としてピラミッド状の群れで飛ぶ渡り鳥のような先頭の方向指示に右へ倣う本能も有している(原発反対の国会前抗議行動も「個の確立」でなく「渡り鳥」的に動いて見えます)と思いますし、生存を維持継続しつつ「下」の「個の確立」もする----利己的に消費してよいが同時に公共性を尊び自発的に助け合う集団----いや待てよ、人間はかなり以前からそれが、実はできていて、だから地球上で爆発的に増殖したといえないのかしら。
遺伝情報というには余りにロマンチックな「個人の記憶」が、こんなにも記憶力よく残存した(理由はなんでしょう?これこそが利己的遺伝子というヤツ?)ので、「個の確立」を訴える人たちを増殖させたのでしょうか。
ある人から「基礎理論」という言葉を投げかけられ、久しぶりに大塚久雄の共同体基礎理論についての本を読みなおしているところです。難しいので、投げ出そうと思っていますが。
「個の確立」を訴える人たちは、ただ生きながらえるのがお嫌いなのでしょうけれど、あえてこの不況の時代に「ただ生きながらえる」だけは、そんなにいけないのかしら?と言っておきます。あなたこそ無名戦士の墓に詣でる将軍ではないのですか?死んだ無名戦士が全員将軍と同じ高度な意識と志があって闘っていれば世界は我々のものだったのに、と思っていませんか。


ホリガーの協奏曲集

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さすがエンサイクロペディア・コンポーザー・オーボエビルトーゾ・ホリガーセンセです。
ホリガーくらい偉くなるとキャッチも長くなります。
思い起こすと、サンスーシへの関心の発端はホリガーのCPEバッハのト短調ソナタの役割が大きいです。最初はウルズラ夫人と。CPEにはハープソナタまであって、ホリガー夫妻には近しい作曲家とも思います。2度目はジャコテのハンマーフリューゲルと。最初は第3楽章を変奏曲的に解釈して各変奏パート毎に区切って演奏。次の録音時は区切らず今のサンスーシ・バッハ風に。「緩急緩急」か「急緩急」が多かったのにCPEは「緩急中」みたいなソナタのつくり。バッハとかテレマンのセンチメンタルな楽章だけで1曲仕立ててしまうといったCPEのソナタは好印象でした。王様に聴かせる曲が、こんなだとしたら、やはりこの王様はちょっと他の王様とは違うかもね。この王様は「聡明で思慮深い」という印象。辺境の王様だけれど侮ってはいけません。グラウンの協奏曲は、決断力実行力がある人間の好みとなりますか。しかし、父バッハとも交流しアバンギャルドな「捧げ物」を作らせる器量があります。

オーボエ協奏曲 ハ短調(J.G.グラウン)、チェンバロとオーボエのための協奏曲ロ短調(クレプス)、オーボエ協奏曲 ト短調(J.G.グラウン)、オーボエ協奏曲変ホ長調(テレマン)、2つのフルートと2つのオーボエのための協奏曲 変ロ長調(テレマン)
指揮:アレクサンダー・ヴァン・ヴァインコープ、トーマス・フューリ、ハインツ・ホリガー(オーボエ)
オーレル・ニコレ、クリスティアーヌ・ニコレ(フルート)、ルイーズ・ペレリン(オーボエ)、クリスティアーヌ・ジャコテ(チェンバロ)、イェルク・エーヴァルト・デーラー(チェンバロ)、カメラータ・ベルン
1978年5月、1980年6月 ベルン


バッハの言葉として「クレプスは、バッハ(小川)の中のザリガニ(クレイフィッシュ)だ」というのが。グラウンについては、やはりタルティーニの高弟として、しばしば「悪魔のバイオリニスト」扱い。サンスーシでの活躍をいれても、やはり「盛期ドイツバロック」の作曲家のひとり。テレマン、クレプスも同様の枠。
グラウンは、真作偽作の問題があるのかもしれませんが、短めで淡白な協奏曲と、グランドギャラントなスタイルのものがあります。この録音ではハ短調が大きめで、カデンツァもきちっと作りこまれています。ト短調は短めで簡潔。CPEバッハもオーボエ協奏曲があるけれど、CPEは冗長な癖があり、飽きちゃうのですが、グラウンは技の冴えでカバーできているみたい。


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