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コーヒー店訪問 「退屈な」「踏み固められた」「当たり前の通り道」にある店

知人と馬事公苑の傍らのベーカリーカフェを訪問しました。パンを焼き、パスタを茹で、コーヒーも煎り、700円でランチがいただけます。会計のとき、わたしはランチのアイスコーヒーにクレームをつけました。ホットコーヒーを急冷するため氷上に注いで撹拌したのか、届いたグラスには、氷が残っていませんでした。あまり冷たくない薄めのコーヒーでした。
「きちんとしたコーヒーが飲みたい」。思いあたって、帰途駅そばの古い自家焙煎コーヒー店、珈琲譚を訪問。
コレルリのトリオソナタといっしょにコーヒーを飲んでいたら、澤谷氏のサイトで読んだ「レオンハルトの勝利」を思い出しました。

「----こつこつと長い時間をかけ、多くの実践と楽器から学び、膨大な文献を咀嚼してものした「教科書」なり「事典」なりはその後、多くの後輩音楽家たちに受け継がれ、彼らが個性を競う上での土台となった。----レオンハルトの到達した退屈さは「レオンハルトの勝利」の証なのだ。病を撲滅するという使命を全うすれば医師は失業し、普通の人に戻らなければならない。しかしそれは医師の勝利を意味する。同様に、レオンハルトの切り拓いた道が後続によって踏み固められ、いつのまにか「当たり前の通り道」となった----」

澤谷夏樹氏のサイトより

レオンハルトは一度だけ実演に触れました。プログラムはもう覚えていません。ただアンコールでBWV1012のサラバンドを弾いたように記憶しています。それから、休憩時間に自ら調律をていねいにしていたと思います。
そのコーヒー店のマスターは面長で無理をいえばちょっとレオンハルト似かも。

西洋のクラシック音楽は、99.9の同質性を合意して、差異を楽しみます。
演奏家はその差異をもって、自分とだけ向き合うナルシストになります。

最近は、コーヒーに偏ったというか、理詰めならぬ珈琲詰めのお店が増えています。先日訪問した船橋のコーヒー店の「222」まさに、何を訊いても、詳細はパッケージの注意書きをご確認ください、という感触。
表記以外責任をもたないと、聞こえます。表向きは、美味しいのは生産者のおかげ、自分たちは微力ながら、そのお手伝いをしています。それに代価を払うわたしに対しては?すべてパッケージに書かれております、という具合。

「私たちの言葉は、世界を壊すばかりで、それを回復する力を持たされていない----」それでも語らなくてはならない。「『社会』なるものの本質がつながりでないとすれば----むしろ逆だ。社会とは交換できないものたちの集合である」。迂闊に多様性といわず、壊す言葉しかないナルシストの集合が、それぞれに語らなくてはならない----そしてそれを聞き取るものもまた、語らなくてはならない。「語り」が「語らい」になるために----ああーっもう「めんどくさい」。

岸政彦氏のことば

岸先生のいう〈「語り」が「語らい」になる〉のがコーヒー店だと思いました。
壊すばかりで、回復する力がない、のもその通りです。
「退屈な」「踏み固められた」「当たり前の通り道」にある店は「めんどくさい」けれど、語らずにはいられない「語らい」のあるコーヒー店でした。

浅煎りから中煎りにかけて、印象的なエルサルバドルやルワンダが並んでいます。中深煎りマンデリンや深煎りケニアもカラメルの甘苦さにあふれていました。中深煎りブレンドも焙煎豆の表面になんとも美味しそうな油脂がまわって薫り高く。今度はきちんとブレンドにハニートーストをいただきます。

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