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(2017年11月) クープラン(1668-1733)「ルソン」リスト-2 幻の「ルソン」、幻惑の「スピログラフ」

1985年録音 ブーレイ以前

レコードをきちっとパソコンで録音して聴きなおしました。
以前に触れた「美しい楕円の音楽」としてのバロック音楽を模索しているように、聴こえるのでした。単声聖歌からスタートし、声と通奏低音の対話という2焦点の楕円を描き、2声と通奏低音の第3ルソンは、トリオソナタになるわけですが、いくつもの楕円がずれながら連続して描かれていくようで、子供のころ遊んだ「スピログラフ」定規を思い出しました。
それと2人テナーの起用は声質と歌唱技術の点からか、どこか稚拙でしかし淫靡で倒錯的に聴こえます。よく言えば「艶」っぽい。三次元的になっても基本同心円のルネサンスの声楽を「明暗キアロスクーロ」と表わし、バロックのそれは「艶」があるのが相違点だと。「スピログラフ」ははじめは面白いけれど、わたしなどは目眩がしてきます。偏執的に感じます。楕円の美しさを保つのは、常軌を逸しないギリギリのバランスを保つような危うさがあって、それが艶を出させるのかもしれません。
幻の音盤だったために多くの言葉を費やしましたが、この録音以降の多様な名盤には及ぶべくもない、これもまた幻に惑わされた結果、常軌を逸し楕円軌道を外れそうになった、と考えた方がよさそうです。良くも悪くも徒花は徒花でした。

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フランスバロックのオートコントルについて。
ジャン・ポール・フシュクールは、1958年ブルゴーニュ生まれのオペラ歌手。フランスバロックは特に専門のレパートリで、ファルセットを使わない最も高音域のテナー。フランスでは「オートコントル」。クラシック・サキソフォンと指揮を学ぶが、1982年に受けたキャシー・バーベリアンのワークショップで歌手に。以降、レザールフロリサンを中心に活動。ラモーの「プラテ」などタイトルロールを。オフェンバック、プーランクほかロマン派歌曲も。
オートコントルは、シリル・オヴィディという若手が活躍中。オヴィディはシャルパンティエのエールを録音したりしています。この人がクープランのルソンを歌うなら聴いてみたいです。
LPで届いたクープランのルソンは、クエノーとは全く違っていました。クエノーはジャンルに関係なく立派な風格のある大歌手でした。スゼーとかモラーヌとかフランス語の歌手たちは、フランス語の歌に対して特別な思いがある感じです。

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2011年5月の段階で「まだ見ぬ」代表的な1枚でした。
オランダから届きました。久しぶりのLP盤、もはや買うことはないかと思ったのですが。レコードプレイヤを残しておいてよかった。レコード盤のホコリを取る道具は捨ててしまったので、メガネのレンズ拭きで代用。若いころより針のプチプチ音も気にならなくなり。
一聴印象、デラーの演奏に近く感じました。かなり語り寄りで朗々と歌う印象はほとんど受けません。そうか、フレーズの終わりに付加された軟弱ととられかねないトリルがデラーっぽいのです。
ラテン語の発音はほぼローマ字読み的。ソレムの坊さんが歌ったら、みたいにも聴こえますか。
このレコードは、クープランの聖水曜日のための3つのルソンの全曲が収録されていますが、第1ルソンの前に同じ歌詞がプランシャン(単旋律聖歌)で読誦されます。カストラートでもカウンターテナーでもないとしたら、フランスの教会ではテナーが歌うのが適切なのかも。

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F. COUPERIN. Trois Ieçons de ténébres. Jean Belliard ジャン・ベリアール , Hervé Lamy  エルヴェ・ラミ(第3ルソンのみ) (tens); Philippe Foulon フィリップ・ファロン (Va da gamba); Ivete Piveteau イベット・ピベトー(hpd). Le Chant du Monde/Harmonia Mundi digital CD LDX78809; LiiJ K478809; CE)
85年頃録音。
クラブサンのイベット・ピベトーは1988年にミシェル・ランベールのルソンを録音しています。ジャケットデザインを見る限りランベール盤と似ているので、ピベトーが中心のルソン・シリーズと考えてよさそうです。
この録音は、テナーふたりを起用して独特なポジショニングを獲得しています(今も他に例がないのでは)。ただピベトーの意図はいまひとつ想像が難しいです。クエノーやデラーの男声のレパートリ伝統から発展させたものか、と思ってしまうほど。またはピベトーの先輩ブーレイに対する反論かもしれません。
いずれにせよクープランのルソンは、現在も続くカウンターテナーの重要なレパートリに育ちます。そして、ちょうどフランスバロックの分野のファルセットでない「オート・コントル」、テナーの最も高いテッシトゥーラ(最良の状態で歌える音域)が広まった時期でもあったかもしれません。ハワード・クルックやジャン・ポール・フシュクールあたりの活躍。
クープランのルソンは、一方には修道院の女声が起用された記録が残り、それに沿った解釈があり、一方には聖週間の時節柄休業中のプロ歌手に妙技を披露させるため聖務日課の形式を借りた娯楽という解釈もあり。そのどちらの方向性でも、テナー起用はやはり微妙で、ピベトーがどんな場を再現しようと想定したのか、説得力が弱い。その分、謎多きあだ花になってしまったために、クープランやルソンを好むわたしには、どうしても一度聴いておきたい「幻の」になってしまいました。
この盤は、ずっと、雑誌やガイド本で評論家だけが密かに独り占めして楽しむ、優越感に浸る迷盤の代表でした。評論家が素人では絶対入手できない、と悦に入るようなマイナーのメジャー。所詮はマイナーでした。

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四半世紀悩まされてきたことが、これで一区切りです。
ジョン・コウリがブロードウッドで弾いたロ短調ソナタを含むショパンのアルバム。イゴール・キプニスのベートーベンの月光。昔評論家といわれたコレクターたちが自分たちの優位を示すために書き散らした衝撃の出会いのマイナー盤。インターネットの普及によって、そうしたものの価値はなくなり、趣味のコレクターが左右されることはなくなりました。インターネットは誰でも評論家の時代を作ってしまいましたが。コレクターの自慢話が通用しなくなって、現在はきちっと発信できる人たちが評論家として残っているのでしょう。コレクター自慢したいなら、金澤攝くらい努力しないと、ということなのです。


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