笑うバロック展(143) 残った残った、キワモノ、ゲテモノ
CDはよいものほど、貸すと返ってこないものです。わたしだけかもしれませんが。だからといって、貸さないと共有共感の喜びはありません。
ある時期から、貸したものを返してというのがつらくなりました。他人の気に入ったものを、押しつけてやしないか。だとしたら、なかなか興味が湧かないし、観る読む聴くすべてなかなか捗らないよなあ、と。それで、貸さないで、差し上げることにしました。まあ、返さなくてよいですよ、といって渡すようになりました。そうしたら、何年かして、巡り巡って思わぬ人からお返しにあがられるようになり、いえいえそれは差し上げたもので、最後に持っているあなたのものです、と。おかげで買っても増えなくなりました。本やらCDやら。
それでも目的は共有したいところにありますから、あまり「芳しくない」ものは渡せません。あるとき気がつくと「芳しくない」ものだけが手元に残っていることに。
左→CD初期の時代にバッハのあの可愛らしい曲集のCDはこれしか手に入りませんでした。今聴くとなかなか味わい深いのですが、クラビコードとチェンバロの音量の違いなどに面食らいました。それで今でも手元に。右→ノーマンの縁でドリアンを見つけると買っていた頃がありました。リュートチェンバロは張ってある弦の種類で聴いた感じがずいぶん違います。本当はこちらが正統でリュートで弾く方が「キワ」だと思うのですが。
これらも物珍しさで。バッハの受容史上の資料として?こうしたアクロバットな曲は個人的に好みです。結果愛聴盤みたいな。でもこれを聴いてバッハのオリジナルに便乗した悪質な商魂と思う人もいるかもしれません。でも現実にはバリエーションがオリジナルの発見や保存の鍵になるのは間違いないのではないでしょうか。それにその大切なオリジナルを好んだ人の歴史の証左なんですよ、貴重と思いたい。
左→無名のしかしシャコンヌ最速記録保持者の録音(2011年頃は、今は塗り替えられたかも)。スポーツ感覚の快速化は、変に「キワモノ」視を嫌って一音一音大切に低速で演奏したモノよりよいのではないかしら。とはいえ潔いより粗っぽいか。それで手元に。右→シュバイツァー考案のバッハ弓による。ここまで極端でなくても、バロック弓使用というのを見ていると、かなり湾曲の具合にバリエーションがあるとわかります。弓の毛の側をホールドする弓使いの楽器から見たら、そんなにすごい不自然ではない、と思うのでは。
左→「キワモノ」のアクロバットなんですが、なかなかの説得力。第1巻の1007、8、9よりもアクロバットが際立つ分だけすごい。そして、17世紀にはプロの楽器でしたから、当然この程度の手錬のものはいたわけです、と思わせる説得力があります。とはいえいわゆる名曲鑑賞の枠ではありません。よい意味でオタクな演奏であり、聴き手にもオタクであることを要求します。右→それが「行き過ぎて」どのくらい指がまわるかカタログです。名曲をじっくり鑑賞する、方がよいと思わせる反面教師。でも手先の技巧は身についてくると、運動自体が目的化してアドレナリンがでる、という感覚はわかります。できるようになったことを、相手に分かりにくいからと抑え込むのは大変難しいことです。多少でも楽器を練習したことがあれば、きっと「わかるわかる」と肯きたくなるのです。それが悪いとは、わたしは思いません。実現された夢は思ったより、美しくなかったけれど、「夢に描く」ことは向上の助けになります。健闘を称えます。