笑うバロック(608) 新しい発見をする新しいバイオリン奏者たち
古楽のバイオリンにはある意味悩まされました。
誰のどの演奏、奏法が正統なのか?的な話題が喧しい時代があり、楽器とその仕様の優劣、使用される弦、弓の形状、構え方、歌うか語るか、装飾法、そもそもモダン楽器のメカニカルなテクニックがあるとかないとか。
21世紀の前半は、古楽の演奏そのものがコンセルバトワール化してきたのかもしれません。今やネットで見ていると、ある程度若い世代の奏者は、楽器の支える位置、構え方は時代や曲によってフレキシブルに変化させているみたい。
わたしの経験では、例えば40年くらい前、ブリュッヘンの録音で出会い驚き、よおく聴いたのは、オトテールあたり。発見の喜びを分かち合いました、みたいな感覚でした。同様にクイケンのフォルクレ。ブーレイのルソンなども。そんな中でバイオリンは厄介でした。コレルリの作品5全曲を録音する人はなかなか現れず、四季は録音の度新機軸が問われ、ヴィターリのシャコンヌやタルティーニの悪魔のトリルを録音する人は減り、ルクレールの作品9-3のニ長調ソナタなど、なにもそんなに意識しなくても「好い曲」ではないかと思うのです。フランソワ・フェルナンデスの録音を聴いたとき、やはりもっと録音されて好いように思いました。
古楽バイオリンは、比較批判恐怖症なのかしらと。
そのうちスクラップしますが、フェルナンデス氏ご夫妻の動画を見つけました。チャイコフスキーは弾かないが、「それが何か」----みたいな懐の深さを感じました。夫人はバリバリチャイコフスキー弾きそうですが、「そりゃまた別な話」みたいに協調して楽しんでいるようです。(四半世紀前実演に接した際、あまりに器用過ぎて、この人は演奏家としてどんな一生を送るのか、少し心配でしたが、杞憂でした。充実していて幸せそうで、余計なお世話ながらホッとしました----)
今はジョージアというようになったグルジア出身のマリア・クレスティンスカヤの2枚。古楽の普及啓蒙が東方に向かうのに呼応するかのような経歴の人。だんだん西へ西へ、そしてサンクトペテルブルク宮廷ゆかりの作曲家の作品集。
ドメニコ・ダロリオとルイジ・マドニスのソナタ集。初耳。
音はバンキーニとかガッティ寄りかしら。演奏全体はグルジアのマリアの方が熱っぽさがあります。節度あるコブシ回しが利いています風。短調のセンチなメロディに短くハッとする民族調。飽きずに最後まで聴けました。わたしにはコパチンスカヤとかは煩わしく聴こえます。
フランスのテオとかオーギュとかの若い人たちもそうですが、各地で世代交代して、新しい発見や、出会いの楽しみが芽吹いてきています。うれしいこと。奏者の出身地を検索して確認するのもまた楽しいことです。
ダロリオ(1700-1764)はパドヴァ出、タルティーニスクール。亡くなるまでの30年間をペテルブルクで。聴いていてコレルリ、タルティーニ、ルクレールらのソナタとは「違って」聴こえます。いや、そう聴こえる様に演奏していると感じます。
マドニス(1695-1777)は「ヴィヴァルディの弟子で、1720年頃のヴェネツィアでは名の通ったヴァイオリニストでした。クヴァンツも日記の中で彼を称賛しています。そしてマドニスは1733年にサンクトペテルブルクに移りロシアの宮廷音楽家となります。イタリアの器楽語法にロシアの要素を採り入れた独特のスタイルを確立し、ロシアでも人気を博しました。」との資料。
つまりペテルブルク宮廷の御雇外国人のバイオリン・ソナタ・シリーズという体。
ブルガリア出のプラメナ・ニキタソヴァのCD。
17世紀バロック、ドイツ語圏のビルトーゾ・バイオリン、とでも。
ふたりのバイオリン奏者とも、わたしには「堂々と」聴こえます。ためらいのようなもどかしさがない、と言っておきましょう。----フェルナンデス夫人にはどこかもどかしさが聴こえます。バディアロフ夫人とかも。失礼ながら、「靴を履いて寝ん」が足りないのかもしれません。