スクラップ カフェの役割を考えるヒント
桃山晴衣版の「あそびをせんとや」から端を発し、いつしか小沢昭一へ。
2007年から2008年にかけての「小沢昭一的こころ」の「遊びをせんとや生まれけむについて考える」に。
遊びがなくなってきている。無駄に思えるけれど人間にとって大事な余裕。
あそびのないハンドルで車を運転しているようなもの。
そして、話題はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」へ。
人間の本質は遊ぶということ。「遊ぶ人」を「ホモ・ルーデンス」と命名。「知恵ある人」「ホモサピエンス」でなく、「遊ぶ人」が人なんだと提案した人がホイジンガ。そうか遊ぶために生まれてきたのなら、出世なんかどうでもいいじゃないか。「遊び人」のあとに「働く人」「ホモ・ファーベル」が誕生した。遊びを忘れて、ずいぶん働いて、世の中ギスギスしてないか。何の役にも立たないことを楽しめるのが遊び。
とまあ、そんなおしゃべり。
ホイジンガで検索をかけると、松岡正剛氏に辿りつきました。
もとよりオリジナルを読む気力はありません。松岡氏の文を読むのも大変なのに。
松岡氏の千夜千冊には「ホイジンガが遊びに注目したのは、遊びが本来の生の形式ではないということにある。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであった。」
「遊びは何かのイメージを心のなかで操ることに始まっているというべきなのだ。」「だからホイジンガもこう書いた、『遊びはものを結びつけ、また解き放つ』。」
「ついに『遊びの共同性』に言及し、そこで『遊び』と『クラブ性』とのあいだに何かの重要な関係がひそんでいるだろうことに向かっていった。」
「ただホイジンガは、そのことをうまくは説明しなかった。遊びとクラブの本来的な共鳴関係に気がついたままだった。ホイジンガは端的に遊びとクラブの関係を言ってのけもした。それは、こういう比喩である。『遊びとクラブの関係は、あたかも頭と帽子の関係のようなものなのではあるまいか』。」
さらに下記の3冊のこと。
「ヨーロッパのサロン」評。
「コーヒー・ハウス」評。
これに「クラブとサロン」評を加えて、「カフェの物語」になります。
「ヨーロッパのサロン」評の中で松岡氏がふれたサロンが成立する条件。
「世界観の苗床」という言葉には感心します。
ところで、小沢昭一ラジオの2004年には「一杯のコーヒーから考える」もありました。
不満をコーヒーに沈めて飲み干す、不満の解消法。
コーヒーすなわち恋愛。
最初の喫茶店。当時庶民にコーヒーの味などわかろうはずもありません、えらく評判の悪いまんまぽしゃっちゃった。
コーヒーなんてわけわかんないからお酒でも置こうかとカフェーがはじまり、ついでに女の子も置いちゃおうと、カフェーはピンク模様に。
これじゃいけないうちは純粋にコーヒーで勝負だと純喫茶が----。もうじき自家焙煎コーヒー店ですが、辿りつくまでの道すがらを忘れないようにしたいものです。
天日干しからやれ嫌気性醗酵だのなんだのと、だんだん閉じた空間の方へ移行するみたい。カフェからクラブやサロンに展開する中で、どんな要素を持たせたお店をつくるかが問われます。開放的なカフェから、安全性を保つためにクラブになり、閉鎖的だが安全なサロン空間から世界観の苗が育つ流れ。自家焙煎コーヒー店は、ディオゲネスクラブに対するベーカー街221Bのようなものかもしれません。