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バロック式「簡単には言い表せない」コーヒーについて

レオンハルトのブランデンブルク協奏曲録音のCDに付されたエッセイを書きかえてみました。
やはり「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」とは、かなり難しいことがわかりました。
それでも、どの語をどういった語に置き換えたらよいか、思いめぐらすのは楽しい時間でした。


自家焙煎コーヒー店のコーヒーとカフェについて

 説得力があれば、その人の焙煎したコーヒーは正統的な印象を与える。自分で正統的たろうとすれば、決して説得的にはならない。まったく一般的にいって、ある偉大な精神とその時代のもつ思考の世界の内に没入しようとするコーヒー焙煎者とカフェ経営者だけが、それも、適切な技巧をすでに習得し、また、才能の神秘を自身でももっている場合にのみ、真なるものと純正なるものとを呈示しているという感銘を呼びさましうるのである。

 しかし、コーヒーそれ自体が固定化を拒むために、一つの製品、一つのメニューの完成が、決して正統的なのではない。豆や粉ではなく、人が味わう味や香りがコーヒーだからである。その上、焙煎者は彼の焙煎したコーヒーのそれぞれに、また新たな正統性を賦与するのである。
 正統対非正統の対立(これとて、だれが一体判定できよう)よりも、私にとって重要なのは、言葉では捉えにくい問題である(しかし、[理性にわからぬものを]心が説明する、こともある) が、それは、味覚的な質の問題である。これについては、飲む人に、つまり、コーヒーと同じように(固定化を拒む)変化している消費者(コーヒー愛飲家)に、判断を委ねるしかない( この変化が同時には起こらず、また、変化を先導するのがいつも焙煎し提供する側であるとは限らない!ということから、ある種の短絡がしばしば生じている)。

 原料由来の特性にもとづいて、このコーヒーが「決定的」なものとか「正統的」なものとして、折り紙つきにならないように、私は願っている。コーヒーやカフェは、足元の歴史的な研究の重要性を認め、それを自分たちの仕事の一部だと考えている焙煎者やカフェ経営者たちが、これを「特殊な」ものとして感じることもなく、まして、それを目立たせることもなしに、焙煎抽出し提供したものである。また、歴史的な知見の活用も、異常なものではなく、すくなくとも、焙煎者やカフェ経営者にとっては、そうである。飲む人の中でも、かなりの人には、味香りの違いが分かりづらいかもしれない。しかし、もっとなれて、変化に「同調した」方にあっては、飲む人たちも、さまざまな味香りのバランスが今やまったく自然になっていること、あとの時代の原料特性、個性の重視にくらべると、ここでは、豊かさが味香りの陰影の多様さと焙煎度合の深度の繊細さで表われていること、また、ここでの特性個性が、あとの時代のものにくらべると、クリーンでさりげないことから、もっと内容のある味香りの組み立てをもっていることを、認めてくれよう。味覚は、人が思いがちなよりも、早く慣れるものであり、それで良いのである。そうすれば、コーヒーは焙煎者カフェ経営者と飲む人にとってふたたび、文字通リ「コーヒーやカフェを楽しむ」ことに仕える「道具」になるのであり、すべての専門家や愛好家たちは、絶えす新たに驚嘆しながら、「中庸のコーヒー」に対する確かな感覚とはかり知れない独創力に夢中になってしまうことができるのである。

書きかえ前の原文の「私」は、チェンバロ奏者のグスタフ・レオンハルト氏(1928-2012)です。
録音された音楽が、1976、77年当時、それ以前の同じ曲の表現と比較して、著しく何かが違っていた、ために書かれたエッセイと考えられます。
「正統的」は音楽を語る言葉の「オーセンティック」の訳からきています。

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