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岩波新書1485「瞽女うた」(2014年7月)

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兵藤裕己「琵琶法師」に続く日本の「当道」芸能シリーズでしょう。
著者は「道中案内」の本と書いていますが、新書でこうした案内といえないようなまとまった本が、できるとは。帯は冒頭の「それほど昔ではなかった。」が使われています。この著者は音楽学者にして、名文家なのです。
いきなりが、口頭伝承の自由と余裕が「瞽女うたに正調はない」ですから。
以前ある西洋音楽の演奏家に、川瀬白秋が上手なのかどうなのか尋ねられたことがありました。日本ではこの人が名人なんですと答えました。再現のための記録法や基礎技術の考え方が違うとは思っていたのですが。その場のオーディエンスに対して説得した者勝ちのことを「自由と余裕」。考えてみれば、19世紀のコンポーザーピアニストに通じるのかしら。小林ハルとホロビッツが同じ種族なんです共時的にですけれど、といったら怒る人がでそうですけれど。
日本は田を耕せる人(五体満足な人)は、ピカソのようなデッサン力のある人にし、それのできない人はモーリス・アンドレの弟子にしてきた、という感じ。アンドレを超えられない弟子たちについて、西洋には自由と余裕の評価基準がないのですが、日本では田を耕せない人たちの受け皿を容認する自由と余裕があった、とそんな感じ。

脱線しますが、花柳流のお家騒動をワイドショーで聞いて、有限の領域内で殲滅戦でない競争をすることのルールみたいなものを感じ、花柳幻舟には悪いのだけれど、今は家元制度ができたときの「自由と余裕」に頼りたい感じ----もします。わたしは、橋本敏江は大変な説得力があると感じます。鈴木まどかには説得力は感じません。これが両方併存して残る、自由と余裕、橋下市長には「ない」ものです。今の日本にはそうした自由と余裕はないのです、といわれそうです。本当にそうなのか、もっと考えてみないと。

グローマー氏は、自分が黒船ではないと言いたいのかしら。日本人は西洋的な構築的主体性がなく、外圧に弱い、というのを、そもそも外圧が自由と余裕を奪ったために結果的に外圧に弱いものにされたので、自分はその意味で外圧とか黒船のような存在ではない、といっているようです。全くその通りだと思います。グローマー氏に感謝しつつ、敬意を表します。

----瞽女うたについては、わたしは学生時代に高田瞽女の録音を聴いているはずです。説経節の流れを辿るゼミでした。
当時は関心がなく、1991年に下重暁子が黒川胎内で小林ハルを発見し本に著すまで忘れていました。下重の本には感激したのですが、その後録音を聴いて、その力量に説得力があまり感じられませんでした。
「聴く耳」がなかったのでしょう。平曲について金田一春彦が、何か雑誌のインタビューで退屈で飽きられてしまうもので、廃れるのも致し方ないところがある、というような話をしていたと記憶しています。

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グローマー氏の引用したリルケ「古代のアポロのトルソー」

「瞽女うた」のグローマー氏は、最終章の結びに「瞽女唄が問うもの」という段で初めて「瞽女うた」をリルケの詩のアポロのトルソに喩えます。それまで採譜の五線譜以外、徹底して「瞽女うた」を比較文化的に描かず、調べ上げた資料のみで書きました。もちろん現代のわれわれに対して「瞽女唄が問うもの」を表すのに、ひとつは現代に生きるわれわれがいかに「瞽女うた」そのものからメッセージを読み取れないか、そしておそらくは氏のアイデンティティとの関わりを示す、それがリルケの引用のようです。
リルケがアポロのトルソから得たメッセージに関しては、解釈がかなり定着しているのでしょうか。美術品から感じ取ったメッセージを詩に表し、それが自らの詩の芸術化を表明するものになる、という感じです。グローマー氏は「君は人生を変えなければならない」と訳しています。
下記の原文は、ネット検索で3種の訳をみつけました。

Du mußt dein Leben ändern.
[1]お前は自分の生活を変えねばならないのだ。
[2]おまえはおまえの生を変えねばならない。
[3]君の人生は変わる。

グローマー氏は大変真面目な方のようです。
でも「瞽女うた」のようなある種「失われた」または「排斥された」日本の様々な文化は、明治のころから概ね似た経緯を辿っています。最近わたしが目を通したものだけでも、岩下尚史「芸者論」、東雅夫「遠野物語と怪談の時代」、竹本住大夫だってそうかも。纐纈あや「ある精肉店のはなし」や「るろ剣」もそうかもしれません。一番最近失われたもののひとつに「プロレス」も入るかもしれません。どれも愛すべき「たかが」の「スペクタクル」でしょうか。とすると、リルケの詩もそう?芸術と一緒にするなと怒られそう----でも「即興詩ボクシング」なんてありましたっけ、あれは怒られないかしら?
歴史として客観視する行為は様々な分野でどんどん進んでいます。アポロの視線が「続ける」光であってほしいです。時として彷徨う吸血鬼を灰にするトドメの光かもしれないので。


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Archaischer Torso Apollos
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Wir kannten nicht sein unerhörtes Haupt,
darin die Augenäpfel reiften. Aber
sein Torso glüht noch wie ein Kandelaber,
in dem sein Schauen, nur zurückgeschraubt,

sich hält und glänzt. Sonst könnte nicht der Bug
der Brust dich blenden, und im leisen Drehen
der Lenden könnte nicht ein Lächeln gehen
zu jener Mitte, die die Zeugung trug.

Sonst stünde dieser Stein entstellt und kurz
unter der Schultern durchsichtigem Sturz
und flimmerte nicht so wie Raubtierfelle;

und bräche nicht aus allen seinen Rändern
aus wie ein Stern: denn da ist keine Stelle,
die dich nicht sieht. Du mußt dein Leben ändern.


Rainer Maria Rilke


[1]
リルケ「古代のアポロのトルソー」訳・大津栄一郎

成熟した眼が輝いていたという伝説の頭部は
どこかに行ってしまった。だが、トルソーは
枝付燭台のように燃えている。かつての視線が
燭台となって、いまも、ただ下に向かってだけ、

光を放っているのだ。さもなければ、
胸の隆起がこれほど眼にまぶしいはずはなく、
またわずかにひねった腰の、生殖の営みの中心に、
微笑のようなものが流れているはずもないのだ。

さもなければ、これは、両肩が半透明になっていままさに
崩れようとしている、不具の、ずんぐりした石塊にすぎなくて
猛獣の毛皮のようにかすかな輝きを放つことも、

星のように輪郭から光芒を放つこともないはずなのだ。
このうえのすべての点が、お前をみつめる
小さな眼だ。お前は自分の生活を変えねばならないのだ。


[2]
リルケ「古代のアポロのトルソー」訳・金子瑞穂 

我々は彼の比類のない頭部を知らなかった。
そこでは眼が林檎のように熟していたという。だが、
彼のトルソは今なお燭台のように燃えている、
そこでは彼の視線は、ただねじ戻されただけで、

保たれており、輝いている。
そうでなければ、胸の隆起がどうしておまえを魅了しよう、
腰の微かな捻りに潜む微笑が、
どうして生殖を司るかの中心へ流れよう。

さもなければ、この石は醜い石、
両肩の透き通ったまぐさの下に
置かれた石にすぎないだろう、そして、
猛獣の毛皮のようにきらめくこともないだろう、

あらゆる縁から、星のように
溢れだすこともあるまい。というのは、いずれの部分も
おまえを見ていない箇所はないのだから。
おまえはおまえの生を変えねばならない。


[3]
リルケ「古代のアポロのトルソー」訳・fminorop34

我らは眼が輝いていた頭部は
欠落するが故に分からないが。
トルソは今も燭台の如く光り
視線の向きは絞られ、固定し

輝く。でなければ、胸の筋に
魅了されず、腰ひねる仕草で
生殖器をつけた胴体の中央に
観客は笑いを浮かべぬはずだ。

でなければ、石像は変形して
肩の直下での転倒は明らかで
獲物の皮の煌めくこともなく

星のようにすべての角度から
光らず。君を見詰めぬ場所は
無いはず。君の人生は変わる。

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参考に金子瑞穂氏の神戸大学紀要の一部

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