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「でもしか」投資のミーム

わたしの両親は結婚後、わたしが生まれる1965年まで、浅草でおにぎり屋を営んでいたそうです。現存するおにぎり屋が写真のようなので、きっと似た設えだったと思います。「おえど」という名前だったと聞きました。ただし、写真の同業者のように現存はしません。

いまも営業する浅草の有名おにぎり屋


店はほとんど母に任せて、父は店の稼ぎを持ちだしては飲み歩いていたそうです。そんな放蕩では結局長続きせず、子供が生まれて母が育児に入るとすぐ店を閉めました。
父は工業高校出だったことから、家電販売店や、電気製品の部品製造会社などに勤務しました。子供ができてからは、父はずいぶんと真面目に会社勤めをしていたと思います。
父は親から譲り受けた借地家持ちでした。自宅に隣接した2階6室のアパート経営もしていて家賃収入もありました。わたしが中学生になるくらいまで母は専業主婦でしたが、アパート店子の紹介で地場産業の製靴の内職を始めました。
アパート経営はあったけれど、父という人は要は世間知らずのおぼっちゃまの側面があり、親が残してくれた財産を少しずつ切り売り取り崩していました。相続前から懇意にしていた不動産屋のいうように自宅裏に所有していた月極賃貸の屋根付き駐車場を二束三文で売ったり、友人の借金の保証人になって自宅母屋を売ることになり、わたしたち一家は母屋から、貸していたアパートの1階部分を改造して移り住みました。幸運の一つはバブルの直前に土地を安く地主から買うことになったこと。土地を相続した地主の子息に金を無心され、ずいぶんと無理をして用立てていたらしい。その借金が払えなくなって、代わりに安く土地を手に入れました。

さて、おにぎり屋です。専門店があることがすこし珍しいでしょうか。現存する同業の写真を見ると、すし屋のスタイルでおそらくこつこつ営業していれば、同じように存続したと思います。若いころ知り合った人の中には、居酒屋やうどん屋を細長く継続している人がいます。わたしの両親は、1965年前後に独立自営を目指してかなり気楽に「でもしか」的に投資したことになります。
その店がどこにあったのか、昔聞いたのですが今や覚えていません。しかし、閉店後の店舗はきっと誰か別な人が買うか借りるかして営業したかもしれません。仮に、写真の店舗だと仮定しましょう。シンプルなすし屋スタイルですから、居抜きでも充分使えそうです。わたしの両親がかけた投資を再利用するわけですが、当然当初かけた価値は目減りして二束三文です。後継の人は両親の何分の一の投資で出店できる計算です。
両親には、独立開業を教唆する人がいたかもしれません。まあアドバイスかしら。母の姉は飲食業経営していましたから、その楽しさも難しさも伝わっていたかもしれません。
しかしこの「でもしか」投資は、全く利益にならず純然たる消費で終わりました。人の「志を操るウイルス」に感染した----のでしょう。当時は目立つメディアがウイルスを撒き散らすことはなかったでしょう。誰かを通じて感染したのでしょう。当時の日本は人が増えていたでしょうし、人と人が交わる時と場も多かったかもしれません。今は、トレンドをリードするような雑誌やインターネットが、感染源になります。

ある飲食関連の器具輸入業者氏が、今独立開業を目指す若い人は起業の方法を知らされていないのです、といいます。どうすれば資金調達できるのか?どんな許認可が必要なのか、必要ないのか?もちろんその人は若いアントレプレナーが増えることがご自分の事業拡大に通じるので、一生懸命といえます。経済行為として極自然なことなのですが、どこかに「志を操るウイルス」が潜んでいないか、いらぬ心配をしてしまいます。

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