花を植えた男 (2013年3月記)
「----花に託された、道を通る人への、物言わぬ、親しい挨拶の言葉です」とは、長田弘の「なつかしい時間」の「挨拶の言葉」の一節です。
日本の田んぼや畑が、大層整備された美しいものなのは、なんとなく感じていました。
それでも、いわゆる田舎で畑の額縁にと花で囲む風景は、そこを訪ねた折、初めて見ました。誰がこんなことを思いついたのか。食料であり、生計を支える収入源を作る田畑の縁に、枝豆でも二十日大根でもなく、花を飾る農家。そこに「花を植えた男」がいました。
確かに、広大な土地を持ち、住所の地名もバス停名もその家名と同じというのは驚きで、でもどこか、だから裕福という感じは全くありません。一部を牧草地にして仔牛も育てていましたが、だから一家が自給自足かといえば、まさかそんなことはありません。米は規制緩和の前夜でした。縁故米がトラックで運ばれだしたころ。作った農産物は売って、得た収入で食料も買います。野菜の無人販売所が点在する街道沿いで、簡易販売所を建て完売したらお小遣い程度が賄えるくらい。作った野菜で、漬物を浸けるのが、まあいいかで1日早く販売所に置くことはしない、「花を植えた男」に妥協はなかったそうです。
僅かな邂逅でしたが、畑で作業している姿しか見かけたことがありませんでした。作業着に麦藁帽をかぶっていました。あるときは、最強の案山子に見えました。別な時は、1本だけ植えられた巨大なひまわりに見えました。「花を植えた男」が、まさにその畑の「花」でした。
そういえば菊の玉造りもしていて、ひと鉢丸ごと頂戴して帰って来たこともありました。高原なのを利用して近隣の農家は米以外に高原野菜を手掛け、あるところでは野菜でなくパンジーやトルコキキョウを栽培していました。でも「花を植えた男」は、向上心を失わず、洗練を究めようとしていました。自分たちの土地を一生耕し続けると決めた日から、でしょうか。どんなに広くても、自分の土地の境界線上の見えない壁から先の世界には決して住むことができない。どれほどその先に憧れても、離れられない。だから、自分の土地を耕し続け、美しく磨き、憧れを自分の方へ引き寄せました。
田舎は過疎が進むのに、定年と同時に都会の暮らしを離れ、田舎暮らしをしようとする夫婦ものが増えた時分。憧れだけの都会人に、本当の田舎暮らしはついていけないことが多く、挫折者を増やしてもいました。そうした空いた農家の賃貸誘致に応えた都会の人たちに、「花を植えた男」の畑は「物言わぬ、親しい挨拶の言葉」として機能したと思います。何より、都会から出向いたわたしが、ここなら話のできそうな人物がいそうだ、ここならわたしでも住めるかもしれない、そう思わせる「都会の洗練」を軽々と超えたものを「花を植えた男」は持っていたと思います。
10年近く前、わたしは小学生の長男に「花を植えた男」の作った堆肥を段ボール1箱送ってもらいました。もわっと暖かい箱の中には堆肥と一緒に10か15匹か、カブトムシの幼虫がゴソゴソと動いていました。それを見て子供は大喜びしました。わたしは、堆肥が無臭なのに驚いていました。
遠くに見えるが手の届かない花に憧れ、そこへ行かずに花を植えるところから始め、憧れそのものを自分の内に作り上げることができた「花を植えた男」は、おそらく幸運にも「3.11」後を過ごすことはありませんでした。「花を植えた男」が大切に耕してきた土地には、別な見えない壁ができ、その子供たちは、「花」が植えられた土地から引き離され、安全という名の遠くに引っ越さざるを得なくなりました。見えない壁によって、何十年も閉ざされる危険な地になってしまいました。安全の地も、もはや「花を植えた男」の見た憧れの地ではなくなっていて、子供たちは「花」が植えられた自分たちの土地を遠くのぞみながら、今、安全の地に「花」を植え始めています。