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出版当時読んで感想を書いた(2)

2012年12月

同じ年齢の許光俊氏の「最高に贅沢なクラシック」を読みました。
いろいろとシンクロするところがあって、気味が悪いくらいでした。
言ってくれてスッキリしたみたいなことから、それは言わぬが花なんじゃ、というものまで。正直最後まで読むのが恥ずかしい、といのが偽らざる感想。
「クラシックは基本的には豊かな人の音楽である。あるいは豊かであろうとする人の音楽である。豊かでもなければ、豊かになろうともしていない人の音楽ではない。クラシックだけではない。日本の伝統芸能や芸術もそうした面を強く持っているはずだ。(中略)むろん、ここで僕が言っている豊かさとは、経済的な余裕という意味だけではない。心の余裕、人間はこう生きるべきだという倫理という側面も持っている。失われて久しい教養という概念もこの豊かさに含まれる。幸福と言い換えても間違いにはなるまい。」
「かつて持っていたはずの豊かさのイメージを失った。大人は若者に、こういうのが豊かな生活だと教えられなくなった。」
「若者よ、厳しい時代かもしれないが、無理をしてでも贅沢を知りたまえ。豊かさと余裕の中で熟成してきた美を知りたまえ。」
たくさん共感するところがあるのですが、残念ながらわたしは「教えられなくなった大人」側です。許氏が考えるより現代は思った以上に厳しい、というのが率直な感想です。許氏の経歴と階層の中で、出会った若者にはそう言ってあげてください。少なくともわたしは、許氏より経歴と階層が低く、精一杯「豊かであろうとする」者です。そこで出会う若者は----厳しいです。年末にかれらにわたしができたのは、写楽のたい焼きを差し入れすることと、アンジェリーナのモンブランを一緒に食べることが精一杯でした。
「贅沢せよ。人と会え」は、いわゆる人を見る目というのを養うひとつの具体的方法だと思います。本当の意味で目上の人に出会う場に自分から飛び込む方法でしょう。そこで本当に一廉の目上の人物と会えれば、人の豊かさも高い方から低い方へ流れるので、その人が持っている豊かさの一部を享受できるでしょう。それが蓄積して、僅かでよい本当の教養が身に着けば、目上の人に対して琴線に触れる自己紹介ができるし、物作りもできるようになるものです。反対に、そうした場の選択や人の出会いを間違えれば、関わるほど損をするでしょう。損をするというのは、自分が思っているより高いところにいて、間違って低い人たちと交わってしまい、豊かさが流れてしまっているのです。何回か損をして、考えようによっては、自分の位置を確認できる機会にできます。
許氏の階層であれば、贅沢できることが、下の階層ではナケナシの貯金をはたく結果になることがあります。自己資金1/3で残りの2/3はお貸ししましょう。そして、3/3すべてを他人に払って、自分はスッカラカンになる、という具合です。
テーマはクラシック音楽ですが、老獪なヨーロッパの戦略的思考を知る上でもなかなか指標になることが多かったです。音楽産業の動向が伝わってきました。近年デュダメルやユジャ・ワンがメジャーになり、先日シャンカールが亡くなって、フーン「外部を必要とする」というのはこうしたことに現れてくるのか、と。独自性を保ちつつ、取り残されないようにするには、こりゃなかなか大変かもしれません。

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この本のおかけで、美味しいワインをいただきました、収穫。

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