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素晴らしき白河夜船

月刊福祉に、大河ドラマの時代考証担当の倉本一宏氏のエッセイ。
学生時代に聞いた講義を思い出して「仮名日記のような創作や虚構」を懐かしく読みました。

古記録という史料 (倉本一宏)
 はじめに、史実とか平安時代の実像とかということと関連して、「古記録」という史料についてお話しします。
 「日記」 というと『蜻蛉日記』や『紫式部日記』など、女性が仮名で書いたものをイメージする人が多いかもしれませんが、歴史学では、貴族が和風の漢文で書いたものを「日記」と呼んでいます。ただし、仮名の日記と一緒にされると混乱をまねく可能性があるので、「古記録」という言い方をしています。
 平安時代、とりわけ、特に10世紀以降になると、上は天皇から、皇族、貴族まで、さまざまな人が日記を書くようになります。中世になると武士、僧、神官、学者、文人まで、近世になると庶民も日記をつけるようになります。これほど多くの階層の人が日記をつけ、かつそれが現存している国は世界的に見ても日本だけです。
 とりわけ、君主が日記をつけるなどというのは他国ではあり得ない話で、日本文化のひとつの特色だろうと思います。ヨーロッパはもちろん、中国や朝鮮諸国にも古い時代の日記は残っていません。
 なぜ日本だけ、これほど日記が書かれたのかというのは、文化史的に非常に大事なことなのです。それは正史という公式の歴史書が作られなくなったためです。そして"記録=文化=権力"であるという風潮が貴族の間で広まったためでもあります。
 日記がなぜ残ったかというのは、さらにおもしろい問題です。日本に個人
の日記が残っているのは、「家」が続いているからです。藤原氏の諸家を筆
頭に、公家の源氏も残っています。また、王朝が交替することなく、同じ都
市に宮都が千年近く存続したことも、大きな要因となっています。
 我われが書くような個人の日記と違って、古記録と言われている彼らの日
記は、主に朝廷における政務や儀式の様子を詳細に記録して、それを後世の
人々に遺したり、同時代の貴族に参照させたりすることが目的でした。仮名
日記と違って、出来事が起こった当日か翌日に書かれるため、まれに思い違
いがあることはありますが、仮名日記のような創作や虚構はほとんどない、
第一級の史料です。
 次回は、藤原道長の『御堂関白記』、藤原行成の『権記』、藤原実資の『小右記』といった、藤原氏による摂関政治が行われた時期を代表する3つ
の古記録について、簡単に説明していきます。

そして、紫式部より60年ほど遡る「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」に改めて驚きました。すでに「作者と語り手のはっきりとした分離」した文学作品だというのです。

ちくまの教科書というサイトには、次のようなトピックが綴られています。

『土佐日記』が作者・紀貫之の土佐から都までの旅の様子を記した記録として読まれてはいるものの、文学として読まれていないことを示している

「ある年。実際には承平四年(九三四)であるが、……」という注は、ぼかした意味を考えることに向かわず、事実としての旅の記述を歴史的に押さえることに向かってしまう。結果的に『土佐日記』は文学として読まれるのではなく、紀貫之という有名な平安貴族の旅の記録として読まれてしまう。

ちくまの教科書

何を言おうとしているのかというと、日記とか記録とかいうものには、嘘を書いてはいけない、ということが言葉でなにかを表現する場合、褒められることではない、ということです。
ここでは白河夜船は称賛です。
最近、note内で楽しんだマンガと作家を大いに称えようと思います。
この作者たちそれぞれの白河夜船はなんと素晴らしいのでしょう。
わたしには日本文学史のミームが活きているように思います。
平安時代から地の文に歌が挟まれるミュージカル映画のような作品を創作していたミームは、現代、言葉と絵で西洋の音楽を奏でられるのです。


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