見出し画像

韓国映画の感想2009-2015

とにかくこの10年近く、ほとんど韓国の映像作品とは距離をとってきました。意欲的に鑑賞していた時代の感想文を集めてみました。

2009年5月2日「アンティーク~西洋骨董洋菓子店~」感想
面白い映画を作ろうという意気込みは、日本をはるかに上回る熱意があります。ケーキ、同性愛、誘拐の3題噺を結局日本は映像化できませんでした。原作が、いかに緻密なシナリオであり、かつ映像的だったことか! 再認識しました。惜しむらくはケーキに対する予算が少ないこと。テレビ同様に辻調にたのむべきでした。韓国の食文化は尊敬していますが、洋菓子に対する取り組みはまだ発展途上。原作のおいしそうな色艶がスクリーンから伝わってきません。原作はケーキに対する取り組みもかなり高度でした。辻調くらいしか実写映像化は難しいかも。
ロケ地が素晴らしかったので、ぜひ行ってみたいものです。店やオーナーの自宅の周辺の瓦屋根が雰囲気をだしてました。お店は国立のアントルメあたりがモデル?かしら。

2010年04月15日「渇き」感想
テレ-ズ・ラカンでした。
インスパイヤされたレベルでなく、わたしが見たTPTの「テレーズ・ラカン」などと比較すると原作です、と断言した方がよいでしょう。当時のルボー演出が「サイコ」に触発されたというのは、適切だと思いますが。不道徳で淫靡な物語になっています。おこちゃまのわたしには毒が過ぎます。むしろ、チャヌク監督が触発されたのはライミ版「スパイダーマン」のような気がしますが。 (「真昼の決闘」から「リオ・ブラボー」みたい)
韓国の懐メロもたくさんかかる(物語はいつの時代の設定なのだろうか?)のですが、バッハのカンタータ82番の冒頭のアリアのテーマが映画の枠に使用されています。「われ満ち足れり」というアリアなのですが。
それにしても、素晴らしいエフェクトの数々、血糊はたっぷり使わないとね、という好例。ルボーの「サイコ」へのオマージュに対して、チャヌク演出は「悪魔のいけにえ」へのオマージュもあるかも。
しかし、最後の最後のクジラがわかりません。あんな必要があるのでしょうか。興醒めもいいとこです。同じ靴はいて灰になるだけで十分説得力があるはずなのに、一言多いCG合成は最近の映画の特徴になりつつあります。
なぜ吸血鬼なのか?神父が主人公で人妻と関係するには、必然かも。
なぜ神父にしたのか?またなぜ吸血鬼なのか?
確かに「テレーズ・ラカン」の主題ははっきりしますし、より興奮します。それならば例えば、神父がDVから救い囲っていた稚児さんが不治の病で自死し、神を呪っている程度の前振りがあれば、よかったかもしれません。その稚児さんとヒロインに共通の面影を設定すれば、吸血鬼ものとしてはより分かりやすくなります。R指定がさらに厳しくなるかしら。

メモ1
この頃----ジェイソンライトマンとニックカサベテスという2代目監督の映画と出会いました。ハリウッド式から距離をとった若手だったかも。

2010年12月「チェイサー」感想
不思議の国の韓国映画をツタヤレンタルで。
リアルさを追求しているのか救いがない結末が多いかしら。「渇き」「母なる証明」「グエムル」にしても。
「猟奇的な彼女」があまりに面白く、韓国の映画作りの情熱と緻密さに感心したので、注目していました。後続「恋する神父」も結構笑わせていただきました。
アン・ソンギたちが活躍した時期はまだ平面的な絵の作り方でしたが、要はハリウッド風の立体感が導入されて「シュリ」(ソウルの博物館で、ご当地固有種のコーナーにシュリを見ましたっけ)あたりから?ハン・ソッキュはまだ活躍しているのかしら。その後、「カル」の様々なカタログ的特殊効果と説明しないストーリーが話題に。日本と違う韓国のエスプリを味わう機会でした。男性のマチスモは日本より強いと思うのですが、女性の母性の強さも凄味があります。
中日にいたソン・ドンヨル投手がソウルから通勤するかのような母介護の様子など、当時少し不思議に見ていました。「母なる証明」とか「親切なクムジャさん」とか日本と違うメンタルな部分が、ああした寂しい物語に集約されて、ウーンどうなのだろう?
「チェイサー」もあれだけ坂道を登り降りして、創作的偶然性の展開をわざと肩すかしして、むしろ、ちょっと説得力が低下しています。「シュリ」「カル」以来の印象的な水槽が登場するのですが、暴力的すぎないかしら。
「反則王」とか「西洋骨董洋菓子店」とか、これまたちょっと日本では作れない作品を作ってくれたりする韓国の映画には、それでも期待してしまいます。

メモ2
wiki検索1----世界三大映画祭と言われるカンヌ国際映画祭(パルム・ドール)・ベルリン国際映画祭(金熊賞)・ヴェネツィア国際映画祭(金獅子賞)では、2009年現在、韓国映画は最高賞を受賞しておらず----へーっ!です。
wiki検索2----ニューウェーブ:韓国の映画史において重要な出来事が3つあった。1992年、サムソンが出資した en:Marriage Story が初の政府出資でない映画として制作された。1999年『シュリ』が公開され、韓国における興業収益の50%以上を獲得して大成功を収めた。3つ目の出来事として2001年の『猟奇的な彼女』が韓国映画史においてもっとも人気を収め、海外でも成功をおさめた。‥‥「政府出資」って。うーん考えみれば、「シュリ」「猟奇的な彼女」ともキム・デジュン政権(第15代大統領:在任1998年-2003年)下です。

2012年6月30日韓国版「白夜行」感想
18禁でした。映画だと長い原作を短くしないといけません。
少し気になったのは、男性の主人公がずいぶんとロマンチックな人だということです。悪女が男をコントロールしていくわけですが、ケインの犯罪もの(「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「白いドレスの女」)のように共犯同士は肉体関係で結ばれていません。この辺がミステリとして新しいところなのかもしれませんが、ではなぜ男が女に逆らわず、陰で犯罪代行するのでしょうか。男は女のために罪を犯し、どうも女と結ばれるために時効を待っているようです。
男が尊属殺を犯す理由ですが、かれの父親は愛人がいて(経済的に豊かなら当たり前でしょう)、しかもその娘の方に実は興味があり(ナボコフ?にしては女が年寄り過ぎ)定期的に性的虐待をしていた(映像メディアがプライベートなものになってからはこれも意外と日常茶飯的)、原作でも映画でもその舞台となった時代には、それはそんなにショッキングではなくなっています。原作ではそういったことが日常的であることが、ノワールだといっている様子です。ラストでロマンチックに凝り固まった男は、女のためにロマンチックに死にますが、おそらく子供のころからずっとロマネスクな暴力の日常を過ごしてきた女は、ロマネスクにそんな人は知らないと通り過ぎます。知らないということが論理に適っているのに、知っていると言ってしまう「容疑者X」のラストとは対照的です。そう考えると、ともに時代遅れのロマンチストの死に様を扱っているわけです。
ロマンチストの男にとって、恋する女が自分の父親に性的虐待をされているのは大層特別なことです。時効までは清い交際でいようね、と丸めこまれるほどに、です。同じく隣の部屋の母娘が暴力的な夫であり父を殺害するのも特別なことです。両方ともあまりに身近で当たり前になった時代に、それに果敢に逆らおうとするロマンチスト男ふたり。現代のミステリ作家の物語を作るミステリのロジックそのものが、現実の方が先行していて追いつかない、横溝ミステリの伝統のように犯罪を未然に防げずいつも「しまった」を繰り返す物語に対する挑戦です。
それでも、尊属殺をするほど男の父親の性癖はショックなものでしょうか。ポラロイドが家庭に浸透してからこちら、どうでしょう。きっと今は携帯電話のカメラが同じ役目をはたしているでしょう。写真に撮られることに対して何らかの理由で恐怖を抱いている人は、よく二の腕で目鼻のあたりを隠します。
さて、この東野のブラックでロマンチックな物語が、ロマネスクな展開ならどうなるでしょう。----主人公の男は、きっと女を直接助けず見て見ぬふりをして過ごします。そのうちに女と付き合うようになります。男は父親に交際を告げます。交際中も、女と男の父親との関係は続きます。そのうちに男は父親が息子と交際宣言後も関係を続けていたことを知り、驚きます。さしずめ、男は息子の自分が彼女と交際すれば父親から彼女を守れると思い込んでいますが、実際には父親の身の回りから偶然ポラロイド写真を見つけてしまう、そこには自分が知らない時分の彼女でなく、よく知った後の彼女が写っているのです。男は女を詰り暴力的になります。女はその両方から逃れるために新興宗教にのめりこんでいきます。男は決めます。すべてを完全に無感覚のうちに無視して、すべてを受け入れ、すべてに積極的に無責任に振舞います。子どもができても、それが自分の娘なのか、もしかしたら妹なのか?疑いつつ無視します。男の父親が性的虐待を強いていた少女が、現在の自分の妻だけでないことがわかっても同様です。時折家に遊びに来ていた従姉妹がぱったり来なくなったり、父親の会社の新入社員が高卒の女性だと1年もしないうちに退職したり----。一度だけ母親が父を糾弾するのを目撃しますが、ものすごい癇癪を爆発させ、そもそも母が父のことを全く無視して受け入れず相手してくれなかったからだ、とすべて母のせいにすり替えます。そして今時の若い女は昔の商売女より狡猾で計算高く、自分が人間教育をする必要があると、正当化します。
人は、自分や他人を殺すのは、基本的に回避したいものです。しかし、殺す以外選択肢がないのに殺さないと、どんどん無感覚無関心になっていきます。ミステリは戦争と違って、少ない人の死の存在と重さが圧倒的です。現代にあって人の死に意味を持たせるのが、ミステリと笠井潔がいっていたかと思います。「白夜行」も「容疑者X」もどちらも、今にも無意味に忘れられてしまいそうな人の死を、名探偵でなく犯罪者自身が必死に意味を与えようとしています。その意味では東野という作家は、結構正義についてロマンチックなところがあります。いや基本的にロマンチックに正義を信じている人がミステリ作家になる、といった方がよいでしょうか。東野くらい緻密な論理の人になると、ミステリの技法で正義とは?と問えると信じています。どれほど救いようのない論理的結論でも、ミステリ作家にとっても武器は論理です、と信じている----いいなあ。打ちのめされたことがある人にとって、正義を問う論理を信じることができるのは大層うらやましいことです。
ポラロイド写真やビデオ動画などに写っている物事は、枠の外から見ている人にとって絶対に修正できない過去を表わしています。絶対に手の届かない、どうにもならないことがある、ということに打ちのめされるのです。その中で起きていることには、無関心、無感覚でないとこちらの方が生きていたくなくなりますから。
「白夜行」の主人公のような男は、おそらく現実離れしています。本来は「負け組」として行き続けなければなりません。女の方は、そう生きている人が実際いると思います。そして、小説の最初で殺される男の父親は、おそらくは良識ある市民として最も自然に生き続けているはずです。もしかしたら尊敬される教育的指導者的立場として「勝ち組」を。「白夜行」は、「負け組」の見る夢の世界の出来事です。「負け組」を経験していると、程度の差はあれ感じるものです。「どうにもならない」過去を見たことがトラウマになった人は、原因を徹底的に排除した世界をフラッシュバックのように見るものです。

『백야행(ペガヘン・白夜行 )- 하얀 어둠 속을 걷다(ハヤン オドゥム ソグル コッタ・白い闇の中を歩く)』

メモ3
この頃----「画皮」「武侠」でドニー・イエンと出会いました。韓国の美男俳優が画一的に映りました。

2013年4月15日「トガニ」感想
韓国映画の「オレンジと太陽」みたいなタイプの告発ものでした。ただ虐待の描き方が正反対でした。おそらく理由は法廷ものの体裁のため、リアルに虐待を見せ、一番賢い聾唖の子供が加害者側を追い詰める証言を繰り出すためかしら。子供たちの証言部分が事実だとすれば、小説より奇なりの典型です。10年ほど前(2005年ころ)でも、主人公が就職に寄付金を積まないといけなかったり、するのですねえ。それを老母が家を売って工面したり、母親の存在が大きい国ですねえ。裁判を傍聴に来た母親との対話に感動しました。
2000年以降の韓国映画は、国策的にすごい速さで国際的レベルに成長しました。「風吹く佳き日」のローカルなころが懐かしく感じます。そう、ケン・ローチの「天使の分け前」の方がなんともローカルな撮り方です。日本の「カントリー・ガール」の方がもっとローカル。その意味では韓国映画はグローバルだけれど、画一化の危険な匂いがします。

メモ4
この頃----2014年元旦「ゼログラビティ」「ハンナアーレント」2本立て。同年4月「ある精肉店のはなし」に出会いました。

2015年2月1日「悪魔は誰だ」感想
そもそもの原題は何なのかしら。わたしにとって、実は韓国映画の原題がもっともわかりません。邦題「チェイサー」とか邦題「トガニ」とか。まあ邦題「アジョシ」はわかりますが、邦題「母なる証明」はもはや意味不明です。そして、原題を確認しようにもハングル文字は読めないし、読めたとしても----辞書がひけません。邦題「悪魔は誰だ」は「モンタージュ」が原題みたいです。真犯人を被害者がコピーキャットで陥れる、という複雑な話。「カル」に始まったサイコスリラー作劇が発展し、わたしの感想では東野圭吾ミステリの作法を吸収して、社会性を持たせながら、かなり複雑な本格ミステリを仕立てられるようになった、という印象です。日本が作ると「真夏の方程式」や「プラチナデータ」のような何とも薄っぺらな映像を作ってしまうのと好対照です。
そのうち、日本も渡辺あやとか纐纈あやとかの才能が、とんでもないミステリ映画を撮るかも----なんて。

メモ5
韓国映画は以前から120分超えが定常的でした。省略の工夫が足りないと感じます。物語に忠実に過ぎ、映画館映画の独自性が弱いと感じます。

メモ6
太字を読み返しながら、時期時期に観た他の世界の作品と比べて、映像表現の総合的レベルが向上しているのに、無理している感じが痛々しく、暗闇で共有する体験としては、大層辛いものに感じました。「容赦なき」韓国映画についていけなくなりました。


いいなと思ったら応援しよう!