戦争をどう防ぐか

■ なぜ、戦争は「悪」か。どうすれば、戦争を止められるか。

 戦争は人間を根本から抹殺する。あるいは個人を根本から否定することです。正義の戦争など、この世には絶対にありません。戦争を存在させること自体が「悪」だということをしっかりと、確認することが大切です。さらにいえばテロも悪であり、両方とも止めるべきだといえます。しかし、人間は「悪」だと分かっていても、それをやってしまう。それは、なぜでしょうか。
どうやらここには、もう少し深く考える余地が私たちにもありそうです。
 
戦争が始まると、まず現在のメディアはこぞって戦争肯定の立場に豹変することは間違いありません。また多くの国民は気持ちが高揚するため、メディアに扇動されて戦争肯定派に回ることもありうることです。しかし、戦争を決定する指揮命令系統の一握りの人間、今でいえば「閣議決定」、彼らは直接戦地で戦うことのない一握りの責任者たちということです。あるいは軍指令部を除き、戦場に赴く兵隊、一般大衆は生死をかけた戦いの犠牲となります。それは、敵味方なく共通してしまう。だからこそ、戦争を廃絶すべきです。

 また、人間の生命をある理念(幻想)や共同体のために犠牲にしていいのでしょうか。あるいは奪ってしまってもいいのでしょうか。私たちの考えでは、個人の自由な意思を奪うという現在の国家では、政府と国民は政府が上位にあるという理由で、国民が政府に服従せざるをえない。それを裏付けているのが法律というわけです。

 今、安倍政権は、この悪法を連発しています。野党は国会での議論はするものの、多数与党に押し切られて、結局は与党の自由は政治運営になってしまう。しかも、首相に権力を者宇宙させています。ここに欠陥があります。首相が間違った政治をしても、民意が反映されないままに、共同体を優先せざるを得ず、個を圧殺し、犠牲となることを強いられるのが本質です。それが嫌ならその共同体から出てしまうしかない。それが可能なときもあり、そのために命を失う場合もあり得ます。

 戦争でも同様に、その国が開始した戦争に国民という立場では、戦地に赴くことを強いられ、見ず知らずの相手国の国民を個人的な理由の如何にかかわらず、敵国の国民という理由で殺害を強いられる。それを拒否するには戦争に反対する非国民の汚名を甘受し、あるいは国から処罰される場合も起きてくる。 国民という共同性の立場では、国とその民という関係からこのような事態が根本的には生じてしまいます。組織という共同体の持つ強制力です。では、なぜ自由に振る舞えないのでしょう。

 そこで、彼は共同体は個人に必ず逆立します。ものだから、その共同体自体は、つまり共同幻想はないほうが良いという結論が、そこから引き出せます。自由な状態の個人をより多く守るために、国家の強制を最小限にし、支配力をできる限りなくしていけるような仕組みを段階的に作り出し、いずれは個人が強制力=抑圧のない状態で、自由に振る舞える社会の構築を想定するというビジョンが描けてきます。

 戦争による強制出兵をしなくても済むようにするには、シビリアン・コントロールの確立と国民の合意形成の法制化第一がステップです。すなわち無作為に選ばれた国民による投票で軍隊出動の是非を決するべきだと思います。あるいは、戦争をするとか、しないというみことは、国民の負担が、そのままかかってきますから、閣議決定などの一握りの執行機関で決めてはいけません。それでは、身ン位はなに反映されません。首相や単独の政府の決定だけで軍隊を動かすことができないように、戦闘行為の決定権を直接国民に委ねるよう制度改正する。国民投票も考えられます。

 我が国が世界のリーダーとなるには、21世紀の国家の課題が「開かれた国家」にすることですから、「開く」とは決定権を国民に移していくことが、「開く」ことへとつながります。一気に戦争廃絶は困難でしをょう。いずれは解体する現在の国民国家の現状では、まず戦争をするか、しないかの決定権を国民に持たせるべきだということになります。 これで、私たちの社会は、大きく前進します。