ハイファイ・ゴースト(2/2)

 物心つくまえから、幽霊は身近な存在だった。

 生きるために必要な栄養として、なくてはならない存在。

 乳幼児のときにどうしていたのかといえば、口移しで与えられていたというのだから徹底している。

 本当になくてはならないのか、絶食ならぬ絶吸を試してみたこともある。けれど結果は歴然としていた。体重はみるみる減っていくし、体力も落ちていく。

 つまり私の家系は人間じゃないのでは、などと父に問いかけたりもした。

 父は決まってまじめに否定して、病院でどれだけ検査しようと人間以外の要素は出てこないことを論拠に、人類の多様性について語りだすのだった。

 科学や医学的なことは知らないけど、確かに母はもともと幽霊なんか吸わないただの人だったし、長谷川家は近親相姦だけを繰り返してきたカルト一族というわけでもない(らしい)。

 一般家系と違う点を言うなら、極端に短命か、極端に長命かのどちらかに偏る、ということぐらいだった。

 父も母も前者であり、私はまだどっちかわからない。できれば前者のほうが楽だな、とは思っている。

 ともかく異常な家庭環境であることは理解していたので、どれだけ親しい友達ができても、幽霊を吸って生きているという話はしないようにしていた。

 幼い頃にそれをして、後悔したことも理由のひとつだ。

 タブーとされていることにはそれなりの理由があって、侵してみなければわからないこともある。

 その意味ではいい経験になったけれど、やっぱり他人に話すことのできない秘密があるというのは疲れるものだった。

 些細な秘密ならいい。だけど大きすぎる秘密は、子供が扱うには容量が足りなくて持て余してしまう。

 こぼれ落ちた秘密をうまいこと拾って、なぜだか信用してくれたのが中学のときに知り合った末広ツグミで、彼は出会ったときにはすでに死んでいた。

 身体は生きていて、脳も生きている。だけど心はもう無呼吸で、別のものが乗り移っているみたいだった。

 世間が言う幽霊とはまさにこいつのこと、というぐらいに薄気味悪く、不安定で、透き通っている男の子。

 本物の幽霊は透き通ってなんかいない。くっきりとした輪郭だし、生き生きとした血色もついている。

 なのに触れないし、会話もできないし、動きもおかしい。そして匂いがしない。

「匂いがしないってことは、味もないんじゃないのか?」

 と末広に聞かれたことがある。

 それとこれとは別、と言い返したけれど、別でもないのかもしれない。

 だいたい、味なんて本当にあるのか怪しいものだ。

 脳が味を作り出しているだけのような気もする。

 私が感じる幽霊の味も、人が食べたり飲んだりしているものとはぜんぜん違うし、表現がおかしいと末広によく言われる。

 いかがわしかったり、やさぐれていたり、のろまだったり、洗いたてだったり、狭かったり、慌ててたり、そういうのが幽霊の味だ。

 おいしい、まずい以外のことを考えようとすると、どうしてもそうなってしまう。

 だから私は人としての食事を学ぶため、様々な料理を口にしてきたし、飲み物だって新製品が出るたびに買いあさってきた。

 そうした世界へのアプローチは高校のときにピークを迎えて、自然界の食事と幽霊の味を比べるべく、路上観察同好会というものまで結成した。もちろん名称も活動内容も建前で、仮の姿。

 内実を知っていたのは会長の私と、末広だけだ。

 いつも二人で組んで出かけていたから、他の部員には多大な誤解が広まっていたけれど、その時はどうでもよかったので放置しておいた。

 出会った頃の末広は内気を絵に描いたような根暗少年だったのに、高校を卒業する頃には別人のような非行青年と化していた。

 それくらいの変貌は誰にでも起こる。

 私だってそれまでの溌剌さは抗癌治療みたいに抜け落ちてしまったし、戻ってくる見込みもなかった。

 理由はわからない。なんだか急に、いろいろなことがだめになってしまったのだ。

 両親の死は関係ない。私はひとりで生きていけるつもりだったし、そのための努力も準備も怠っていなかった。

 それなのに。

 ある日突然、宅配ピザの価格は世界各国で日本がもっとも高い、という豆知識を仕入れたあの日に、そのこととは全く関係なく、気持ちが急降下してしまったのだ。

 アクロバットに失敗した航空機みたいに、落ち続けて、もう昇れない。

 自然に振舞えていたすべてのことが、不自然になってしまう。

 太陽を隠されて真っ暗になってしまった部屋の中で、私はもうひとつ豆知識を手に入れる。

 それは、ティーバッグをマグに浸したまま一日放置したミントティーは、梅のような酸っぱい臭いを発するということで、とても飲めたものではないという事実だった。

 すごい刺激臭なんだよ、と報告したら、末広は苦虫を噛み潰したような顔で「いいから幽霊吸って来い」と乱暴に言い返してきた。

 あとになってわかったけれど、その時の私は相当にやつれて見えたらしい。

 彼が私を見捨てないのは、父から援助を受けていたというのもあるだろうし、私自身に利用価値があるからだというのもわかっている。

 持ちつ持たれつとまではいかないけど、私から末広に提供できるものは確かにあるのだ。

 ……といったところで、やっぱり今はほとんど比重がどちらに傾いているかは、瞭然としているのだけれど。

 スズメ、カマキリ(冬でも幽霊には関係ない)と続いたあとで、お目当ての人間型幽霊(中年男性)が見つかり、私のノルマは終わった。

 一日三幽霊、と決められてはいるものの、最近の私はかなりルールを破り続けている。

 罰則を実行する両親がいないから別に問題はないのだけど、末広に急かされてこうして吸いに出かける日は多い。

 スーパーに寄ってから戻るとのことで、帰路の途中で彼とは別れる。

 空の色が怪しくなり、雪が降り出しそうだったので、私はマフラーをきつく巻き直した。

 幾度となく通った通学路に近い道を歩いていると、葉を完全に失って、細い裸の枝を揺らしている桜の木が見えて、私は立ち止まる。

 卒業式に向かう道すがら、末広と話したくだらない会話を思い出していた。

「『私はこの桜をあと何回見ることができるだろう』とか、余命に関連して考える人ってよくいるけど」
「……よくいるか?」
「そういうシーンよくあるよねって」
「よくはないだろ」
「桜にたとえなくても、もっといろいろあるよね。あと何日寝られるかとかは単純すぎて、みんな選びたがらない感じ」
「まあ、かなり具体的な数字だせっからなー。具体的っつーか現実味っつーか」
「それで言うならあれだよね、汚い話になるけどうんこでもいいわけだよね。『あと自分は何回うんこすることができるのだろう』。この問題のほうが桜よりだいぶ切実だよ」
「切実かもしれんが病気が限定されるだろ」
「限定されないよ。どんな病気の人だって健康な人だってうんこできる回数は有限だもの。対して桜は有限だけど、見れる回数は自分しだいでコントロールできるでしょ。一年に何回見たっていいし一回も見なくたっていいわけだし」
「そもそもそういう意味で言ってんのか桜の人は」
「優先順位で言うとうんこニアリーイコール睡眠大なり桜だね。うんこと睡眠はどっちも甲乙つけがたいけど、桜はなくても生きてけるし」
「情緒のかけらもない話題だったな」

 本当に情緒のかけらもないし、品性も下劣だ。あえてそんな話題を選んでしていたようにも思う。

 優先順位の中に食事を含めなかったのは、やっぱり私がまともな人間ではないからで、まともじゃない人間が話をするには、まともじゃない人に話すしかないのだ。

 だから末広は安心して会話ができる。

 通りすぎる家には何割かの確率で、ツリーやリースやポマンダーや靴下や鈴やぬいぐるみなんかが飾られていた。

 今の私は鬱のかたまりとして生きているわけだけど、世の中は関係なくクリスマスだ。

 幸せのイメージを背負わされて、そうでない人からやっかみを受ける、かわいそうなクリスマス。

 みんなが意識を向けていると、向ける気がなかった人でも考えてしまうことになる。

 だから季節のイベントというのは面倒くさい。

 共同体から外れている感覚ばかり見つめていても仕方がないから、私は料理のことを考える。

 幽霊は料理できない。吸い込むだけだし、切り分けたり煮たり焼いたり漬けおいたりもできない。だからお店もない。あっても客が来ないだろうけど。

 食べることが必須じゃない以上、私にとっての料理は実益を兼ねない。完全に趣味の領域だ。

 趣味なので失敗したら食べないし、成功しても食べる気がなかったら捨ててしまう。もったいないという精神はあまりない。お金は使うけど、それは他のどんな趣味だって同じ事なのだ。

 家に帰ってきた。

 一人で住むには広すぎる、二階建ての一戸建て。土地ごと売ってしまってもいいのだけど、遺品の置き場もかねているし、思い出もある。ローンは残っていなくてよかった。

 外装も内装も、クリスマス的なよそおいは何もしていない。ケーキの材料でも買ってくればよかったかな、と思う。

 灯りを点け、加湿器のスイッチを入れて、暖房も入れる。空気が温まるまで、コートは脱がない。

 定位置のソファに沈み込んで、テレビをつけようかちょっとだけ考えて、やめて、読みかけの漫画を足元から発掘しようとして、きれいに片付けられていることに気付く。

 末広は執事か何かなのだろうか。

 口も悪いしそんなわけないけど、彼が来たあとはやたらと家中がきれいになっている。掃除を頼んだりはしていない。だからお礼も言わない。

 それでいいのか。

 よくないかもしれない。

 でもまあ、いいや。

 私はねむい。

 眠気を生み出す機能がソファにはついている。ついていないとしたらそれは不良品。

 もしくは私のほうが。

 寝る子は育つ。育たない子は、寝ていない……?

 なら、寝なければ大人にならずにすんだのか。

 ……あれ、私はもう、大人なのか?

 どうだったかな。

 どうでもいいか。

 まぶたが仕事を求めてる。それか、休みを。



「起きろ」

 揺すられているのが肩だとわかるまで、私は夢のない夢を見ていた。

 内容がすぐに失せてしまう、なのに見ていたことだけはわかる、そういう夢。

 潤いの足りない眼球が視界をぼやけさせていて、末広っぽい人がどんな表情をしているのかはわからなかった。

 だけどだいたい想像がつく。彼の呆れ顔は見慣れている。

「まだ夕方にもなってないのに寝るなよ」
「ねないと、育たないし」
「成長期終わっただろ」

 終わってたらしい。時の流れは残酷だった。

 だんだん視力が戻ってきて、テーブルの上にクリスマス然とした赤いラッピングの箱が置かれていることに気付いた。

「なにそれ」
「ケーキ」
「サンタきたの?」
「こねえよ」

 不思議なことに、両親が死んでからというものサンタは我が家にやってこない。

 本当に不思議だ。

 末広は居心地悪そうにテレビのリモコンをいじっているけれど、テレビの音はミュートになっていた。起きてほしいなら音量あげればいいのに。

 痒みの残る首筋をかきながら起き上がり、箱を手に取る。

 スーパーで売ってるようなタイプのものには見えない。というか『一二三』って店名が印字されているし、駅前の洋菓子専門店であることは間違いなかった。

 包装を勢いよくびりびり破ると、末広が何か言いかけてたけど、結局なにも言わなかった。

 箱の中身は、赤黒いブッシュドノエルだった。ショコラベリー?

 星型の小さな板チョコに、Merry Christmasと白文字で書かれてたものが乗っていて、ホールケーキ食べる時っていつもこの部分は私が食べてたなあ、とか思う。

「これ食べるの?」
「食べたくなきゃ食べんでもいい」
「末広は」
「半分」

 半分も食べるのか、これを。

 義務のような気持ちなのかもしれないけど、だったら買わなきゃいいのにと思った。

 でもたぶんこれ、クリスマス当日に行って買えるような代物じゃないし、予約してたんだと考えると無下にできない。

 じゃあ食事、やってみようかという気持ちで、プレートとナイフを用意する。

 ついでに紅茶もいれようかな、とティーカップに手を伸ばしていると、末広が椅子の下からなにかを取り出してテーブルに追加した。

 ラッピングされた箱がもうひとつ。今度はリボンもついている。

「なんかクリスマスプレゼントみたい」
「みたいじゃなくてそのものだ」
「まじか」
「いらねえなら捨てろ」
「もらう」

 もらった。

 風の吹き回しかたが尋常じゃなく緩やかで優しい。

 こいつもうすぐ死ぬのかな。あ、逆か。私がもうすぐ死ぬのか。

 どっちでもいいや、と思いつつ、さっきと同じようにびりびりと開封する。

 中身は、赤いマフラーを巻いた雪だるまのフィギュア……かと思ったけれど、被っている帽子に切れ込みがあって貯金箱であることがわかる。

「女の子に貯金箱ってどうなの」
「おまえそういうこと言うようになったのな」
「成長したからね」

 だから女の子ではないかもしれない。でも何歳でも女子は女子で許されるらしいから大丈夫。

「で、なんで?」
「あ?」
「なんで貯金箱?」
「いや、市原が」
「市原?」

 急に人名が出てきて、びっくりする。

 末広は犯罪を自供する被疑者のように、所在なさげにつぶやいた。

「入部してすぐ退部したやついるだろ。正当な理由じゃないってんで顧問と揉めたやつ」
「あー……あの子」

 市原トウカとかいう子だ、たぶん。数日しか在籍しなかったし、学年も違ったからあまり記憶にないけど。

「そいつが言ってたんだよ」
「なにを」
「クリスマスに貯金箱もらうと幸運になるって」
「はー」

 ばかじゃないの、と口にしかけたものを押しとどめて、貯金箱を両手を使ってくるくる回す。

 貯蓄はある。

 だけど収入は、ない。

 なのに貯金箱。

「とりあえず、割ればいい?」
「貯めるまえから割るな」
「貯まる予定ないから」
「飾っとけよ」

 そうしよう。

 雪だるまはテレビの台座を守護してもらうことにして、食器棚に向かう。

 少し悩んで、引き出しから白のストローを取り出した。クリスマスカラー。

 物質的な食事も、ストローで吸うと、気分だけ味が幽霊のようになる。ような感じがする。雛鳥の刷り込み現象みたいなものだけど。

 末広には「食い物をストローで吸うのは見た目が気持ち悪いからやめろ」とよくいわれるけど、自主的に楽しもうという心意気をわかってくれない。

「紅茶飲む?」
「おう」

 おう、とか。

 何年か前までは、うん、だったのに。

 ポットのお湯が切れていたので、水を足して沸くのを待つ。

 水蒸気が真っ白な湯気になり、水滴になって近くのカレンダーを濡らす。ふにゃふにゃになってるけど、使ってないから別にいい。

 気体は視認できないけど、液体になればこうして目に見える。

 幽霊もなんらかの処置を通せば、ふつうの人の目に触れるようになるのだろうか。

 父が言うには、私たちの仕事は『魂の一部を集めて束にして、一箇所においておくこと』だ。

 おいとく先が私の身体。

 死んだらどこかに回収される。それが天国だか地獄だかは知らないけど。

 先祖代々、このよくわかんない仕事をよくもまあ続けてこれたものだと思う。血も絶やさずに。

「心と身体には、時差がある」
「なんだ急に」

 つぶやきを聞きつけて、末広が不審そうに顔を向けてくる。

「お父さんが言ってたの。『心と身体には時差がある。実はもう死んでいるのに、見た目には生きているように見えたりすることもある。実際に生きていても、死んでいるものと死んでいないものが混じり合っているだけで、幽霊っていうのはその割合が高いものを指してるに過ぎない』って」
「なんかおれが聞いた話と違うな」
「あの人詐欺師だからね」

 死んだというのも嘘かも、と疑っているけど、火葬場で骨になるとこまで見てしまったから、トリックがまだ見つからない。

 母と一緒にどこか遠くの国で、幽霊吸いを続けているのかもしれないし、幽霊になってるかもしれない。

 その想像が励みになる、とまではいかないけど、可能性をどこかに残しておくことは、大事な儀式だ。

 紅茶をいれて、ケーキを半分に切って、末広とふたりで分けて食べた。この儀式はなんだろう? なにかの魔術?

 ストローを使ったらやっぱり怒られたので、ケーキは穴だらけにはならなかった。

 言い忘れてることをふと思い出して、雪だるまの丸い瞳を見つめながら、末広に言った。

「プレゼントありがとう」
「おう」
「血、美味しかった?」

 首筋をかきながら聞くと、末広は固まって、しばらく動かなかったけれど、やがてあきらめたように頷いた。

 彼がヴァンパイアフィリアだというのは、ずっと前から知っていた。

 でなければ私に付き合うメリットがない。

 たぶん私たち長谷川家の血は、ふつうの人間の血とは味が違うのだ。

 だから彼は、その匂いに惹きつけられた。

 彼の吸血衝動がどんなものかは私にはわからない。だけど、吸わねば生きていけないというのは私とおなじだ。

 助けられてきたお礼のつもりもあって、私は彼の密かな吸血行為をスルーしてきた。

「いつから気付いてた?」
「ずーっと前」
「なんだよその気遣い」
「あのね、いくら見えにくいところだからって体に変な跡ついてたらふつう気付くよ。私がいくら上の空で生きてるからってさ」
「吸った直後は、少しそういう作用もあるんだよ」

 口調がなんとなく、昔の末広に戻ってきたような気もするけど、私はそこは指摘せずに、吸血鬼ってより蚊みたいだね、と言った。

「超能力も特にないからな。ただの病気だ」
「私も病気だと思ってる?」
「どっちでもいい」

 だよね、と返して、私ははたと思いつく。

「末広が、幽霊になったらさ」
「あ?」
「吸っていい?」

 困惑の顔がおもしろくて、私は笑いを堪えきれない。


#Xmas2014 #小説


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